白き薬師とエレーナの剣
 いつもなら報告を終えると、多忙なイヴァンは執務のためにすぐ温室を出て行ってしまう。花束を所望の時は作りながら報告をするので、どちらにしても結局は早くここを離れてしまう。

 が、この日は珍しく踵を返さず、イヴァンはいずみを見つめ続けていた。

「あ、あの……何か他にご用が?」

 顔色を伺いながらいずみが尋ねると、イヴァンはハッと息を引き、気恥ずかしそうに視線を逸らした。

「実は先日、母の見舞いに行った時に言われたのだが……直接会って花束の礼を言いたいから、次に来る時はぜひエレーナを連れて来い、とのことだ」

 反射的に頷きかけて、いずみはピタリと動きを止める。

 キリルが許してくれるなら王妃の要望に応えたい。
 けれど王妃は療養のために、王城から離れた所にいると聞いている。

 王妃に会いに行くということは、この城を出なくてはいけないということ。
 こちらの存在をなるべく人に知られたくない上に、ジェラルドの治療とは関係のないことをキリルが許してくれるとは思えなかった。

「……王妃様にお応えしたいのですが、私の外出をキリルさんが認めてくれるか――」

「アイツは融通が利かないから、問答無用で駄目だと言うだろうな」

 イヴァンは軽く息をついてから、どこか楽しげに口端を上げていずみを見た。

「だが、薬師たちの部屋と温室を行き来するだけの生活では気も滅入るだろう。より良い治療をするために気分転換は必要だ、と言っておけばキリルも首を縦に振ってくれると思うぞ」

 そんなに簡単に納得してくれるだろうか?
 イヴァンの頼もしい言葉を聞いても楽観視できず、いずみは憂慮の面持ちを続ける。

 不意にいずみの頭にイヴァンの手が乗せられた。

「エレーナ、お前は外へ出たくないのか?」

 急に触れられて、いずみの鼓動が跳ね上がる。
 これは特別なことではなく、妹を気遣う兄のように接しているだけ。そう自分に言い聞かせ、いずみはおずおずとイヴァンの顔を伺った。

「いえ……ほんの一時でも外に出られるのなら、これほど嬉しいことはありません」

「じゃあ決まりだ。必ずキリルを説得して数日以内に行けるようにしよう。母の病の経過を診るという口実でトトにも来てもらうから、部屋へ戻った際にその旨を伝えておいてくれ」

 いずみが「分かりました」と頷くと、イヴァンはこちらの頭をくしゃりと撫でてから手を離し、一歩後ろへ下がる。

「では、そろそろ執務に戻る。エレーナと出かけられる日を楽しみにしているぞ」

 そう言ってイヴァンは踵を返し、ゆっくりと出口へと向かっていく。
 離れていく背中を見ながら、いずみは小首を傾げる。

(なんだか温室を出るのを惜しんでいるような……気のせいかしら?)

 きっと、少しでもイヴァンと長く居たいと望んでいるから、そんな風に見えてしまうのだろう。
 
 扉が閉まって一人きりになった時、いずみは盛大にため息をつく。
 まだ事態は気が抜けない状況なのに、浮つきそうになる自分の心が恥ずかしくて仕方がなかった。
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