扇情の三秒間
space space space
音楽もかかっていない薄暗い部屋に、キーボードを打つ音と紙がめくられる音だけが響く。
照明は明るい方がいいという一般的な意見に同調しない家主のせいで、オレンジ色の妙にぼんやりとした明るさが部屋を包んでいた。
そんな照明に、最初は文句を付けていたけれど、一向に変わらないので最近は諦めていた。そろそろ、また買い替えを言い出してもいいかもしれない。
次振り返った時に言ってみようと心に決めて、洗ったばかりのさらさらなシーツに頬を寄せながら、キーボードを打つ白い指先に視線を送る。
さて、それを言い出せるのは十分後か、二時間後か。
淀みなく動く指は、時折資料らしき分厚い本を捲っていた。
ふう、と漏れた息がシーツの上を滑る。熱中すると周囲の音を一切シャットアウトしてしまうこの男には、きっとこの小さな囁きも聞こえていないのだろう。
放っておけば何時間だって自分の世界に入り込んでしまうのだ。きっと火事になっても本が焼けるまで気付かない。
私の存在も、今は愛を歌う劇作家に追いやられて頭の隅で縮こまっているに違いない。もしかするともう追い出されているかも。
外国文学、しかも小学生だって名前を知っているような有名作家なんて研究しつくされていそうなのに。いつまでもいつまでも、この人は彼に捕らわれ続けている。それも、自ら嬉々としてのめり込んでいくのだから、いっそ酔狂とでも言いたいくらいだ。
彼の紡ぐ美しさには同意してもいいけど、それなら彼が生んだ、愛を踊ったうんと有名な二人に倣って、その熱を少しはこちらに向けてくれてもいいのに。
このシェイクスピアオタクめ。
放っておかれるのはいつものこと。若くて可愛い恋人と時代さえ違う髭面の男性、どちらを愛しているかと問い掛けたことはないし、今後尋ねる予定もない。何も自ら傷付きに行くことなどないのだから。
今日はいつまで閉じこもっているんだろうか。私がやってきた時には既に今の状態で、それから二時間。
いつからやっていたのかは分からないけど、そろそろ此方に戻ってきてもいいと思うのだけれど。
振り向けと念じて視線を送る。
自分でも自覚する程、視線の矢は鋭くしつこいにも関わらず、どこまで鈍感なのだろう。
ダブルのベッドは、一人で寝るには広すぎるというのに。
胃凭れしそうな念が届いたのか、微かな深呼吸。ぴんと伸びていた背中が緩み、椅子の背もたれに寄りかかった。
薄暗い中に浮かぶ白い指が、見せ付けるように動く。ゆっくりと外される銀フレームの細い眼鏡。痛み知らずの黒い髪が艶やかに揺れ、伏せた睫が頬に影を作っていた。
吐き出した息に熱が隠る。
彼は怒りっぽいし偏屈だし何時間も恋人を放っておく最低な男である、のに、動作だけは時折こうしてとんでもなく色っぽかったりする。なんだろう、ギャップ萌えでも狙っているのだろうか。だとしたら大成功だ、いい加減にしてほしい。
理不尽な怒りをぶつけられているとも知らずに、今視線に気付いたとばかりに顔を向けた彼は、左手に眼鏡を持ったまま目を細めた。
「ん?」
どうしたの? って、そんな風にこちらを見てくるその口元が、小さく歪んでいる。
そんなので、隠しているつもりなのかしら。
「……それ、まだ終わらないの?」
その言葉を待っていたかのように、微かに笑って、彼は眼鏡を掛けて立ち上がった。デスクからベッドへ、決して遠くない距離をゆっくりと詰めてくる。
終わっていたんじゃないか!
口から飛び出そうとしたそんな文句は、言葉になる前に吸い込まれていった。
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