桜が求めた愛の行方
10.父
山嵜は、開店直前に掛かってきた電話により
心が激しく動揺し、この店を開店してから
初めて鍋を一つ焦がしてしまった。
驚いたスタッフ達だったが、賢明にも
口を閉じて無言で後始末をしていた。
『ラスト、よろしく!』
『ウィ』
最後の予約客のガトーが運ばれていった。
あと一時間したら、スタッフを全員帰して
貸し切りにする。
食事は済ませてくると言っていたから
食べてもらえるとは限らないが
逸る心を落ち着かせる為にも
何か作らずにはいられなかった。
人はいつか撒いた種を刈り取る時が来る。
全ては25年前の己の愚かな行動が
何もかもを狂わせてしまった。
もしあの日に戻れるならば、魂でも全財産でも、この身にあるもの、持てるものは全て
神…いや悪魔の前に差し出せる。
あの日、国際空港に見送りに来たすみれが
飲み込んだ言葉を知ったのは
彼女の前夫、藤木要人の葬儀の時だった。
降りしきる雨の中、静かに涙を流している
美しい少女が、自分の娘だと告げられた衝撃
そして、込み上げてきた愛しさ……
すみれと共に生きられなかった人生に、
努力だけではどうにもできない
虚しさを抱え、ただがむしゃらに料理に
打ち込んで生きてきた。
そんな俺にとってあの娘は、神が与えて
くれた宝物だ。
料理しかないと思っていた人生で、
生涯忘れられないと思っていた女性と
残りの人生を過ごせる事になった。
それだけでも、充分だったのに
その女性との間に娘がいたのだ。
宝くじに当たったとしても
これほどの喜びは感じなかっただろう。
すみれの努力を思うと申し訳ないが、
親子の名乗りを上げようとは思っていない。
そんな罰当たりな事ができるはずない。
ここにあの娘が来ることも、すみれには
黙っている。
あの娘の父親は藤木要人ただひとり。
俺はあの娘が幸せに笑うのを見ることが
できれば、それで充分。
あの娘の選んだ男……勇斗君の事は
気に入っている。
真っ直ぐで情味のあるいい男だ。
彼は藤木の後継者に相応しい。
しかし……
まさか自分が後継者争いの火種になるとは
夢にも思わなかった。
あの娘がここへ来るのも、その件だろう。
どうしたらいい?
鍋を回す手を早めながら、都合の良い言い訳が降ってこないかと頭を捻るが
答えが出せないまま、時間だけが刻々と
迫っていた。