七夕の出逢い
過去(前編)Side 涼
――「結納まであと一週間ある。その間に自分のことは自分で真白に話せ」
――「っ……!? 真白さんはまだ知らないのですか?」
――「バカもん……素性は調べるが、暴く趣味は持ち合わせとらんわ」
――「……ありがとう、ございます」
――「安心せい……。過去を知ったところで婚約を取り消すような娘に育てた覚えはない」
あの日の夕食会、縁側に呼ばれそう言われた。
自分の過去を人に話すなど、片手で足るほどにしかない。そもそも、自分から身の上話をすることはなかった。訊かれても、答える必要がなければ答えなかった。
けれど、彼女には話さなくてはいけない。
とくだん抵抗があるわけではない。狸が言っていたとおり、彼女は婚約を取りやめるとは言わないだろう。しかし――彼女の心に影を落とすことにはならないだろうか。
それだけが気がかりだった。
俺は狸に許可を求めた。
「真白さんを自宅へ招きたいのですが、お許しいただけますでしょうか」
『……変なところで律儀じゃの?』
「律儀なのではなく、ごく当たり前のことかと存じますが?」
まだ結納が済んだわけではない。
警護の人間がついているにしても、マンションの一室ともなれば密室と言えるだろう。
『かまわん。過去を話すときには資料があったほうがよかろう』
場所を自宅にした理由までもが読まれていた。
「ありがとうございます」
『おぬしに礼を言われると背中が痒くてならんわ』
おぉ痒い痒い、と言いながら通話が切れた。
今、目の前に彼女がいる。
自宅キッチンでコーヒーを淹れる用意をしていると、彼女は興味深そうに、カウンターからこちらをうかがっていた。
自分の手元にあるのは臼式の手挽きミル。コーヒー豆を挽くためだけに購入し、時間があるときは時間をかけて挽いていた。
「挽いてみますか?」
「よろしいのですか?」
「えぇ、かまいませんよ。……ところで、コーヒーはよくお飲みになるのですか?」
「胃の負担になるとうかがいましたので、普段はハーブティーを……。ですが、お茶のお稽古がありますから、完全にカフェインをカットしているわけではなくて……」
彼女はどこか後ろめたそうに話す。それはきっと、自分が消化器科の医師だからだろう。
「今はさほど胃が荒れているわけではありません。ですから、そんな顔をなさらなくても大丈夫ですよ。でなければ、私がコーヒーを用意するわけがないでしょう?」
笑いながら答えると、彼女は白い頬を真っ赤に染めた。
カウンターに手挽きミルを置き、彼女にはカウンターチェアーに座るよう促した。
「このハンドルを右に回してください。粉は下に、この引き出しへ落ちます」
実際に引き出しを引いて見せる。と、彼女はすぅ、と香りを吸い込んだ。
「いい香りですね」
「えぇ。どんな手順を踏んでも香りは堪能できますが、時間をかけて挽いたものは一味違う気がしまして。自分への褒美に、と買ったものです」
彼女がミルを挽き始めると、自分が挽くときとは違った不規則な間隔で音が鳴る。
ガリガリ……ガリ、ゴリ、ガリゴリ――
部屋に豆が砕ける音だけが響く。
しばらくすると、音は規則正しく鳴り始めた。
ガリゴリガリゴリ――
対面に座る彼女と会話はなく、香りだけがふわりと浮遊し広まっていく。
最後、キュルンと手ごたえのない回転をさせてから、
「できました!」
彼女は花が綻ぶような笑顔を見せた。
「ありがとうございます。では、コーヒーを淹れましょう」
彼女からミルを受け取り、フラスコに水を入れた。
彼女はまだ珍しそうな面持ちでこちらを見ている。
「サイフォンも珍しいですか?」
「あ……はい。自宅ではペーパーフィルターを使うか、エスプレッソマシーンを使ってしまうので、ひとつひとつ手作業でやるものは目にすることがなくて……」
言いながら、彼女は俺の手元をじっと見ていた。
アルコールランプに火をつけ少しすると、中の水がゆらゆらと動き出す。ボコボコと景気よく沸騰し始めたらアルコールランプの火を消す。フィルターに湯を通し、布巾で水気をおさえると、フィルターが冷めないうちにロートへセットし、ロートには彼女が挽いてくれた挽き立ての粉を入れる。
フラスコの沸騰が鎮まると、その上にロートをセットした。
再びアルコールランプに火をつけると、湯がロートの方へと上昇を始める。
湯が完全に上がりきる前に竹べらで粉を撹拌し、アルコールランプを少し弱めてから三十秒。再度撹拌してから火を止める。あとはフラスコにコーヒーが落ちるのを待つだけ。
夏はなかなかフラスコの温度が下がらずコーヒーが落ちてこない。いつもなら香りを楽しみながらその時間を過ごすが、今日は「相手」がいる。「客」がいる。
俺は濡らした布巾でフラスコを覆い、フラスコの熱を冷ました。すると、つ、と褐色の液体がロートから落ちてくる。
「……実験みたいですね?」
「そうですね。『サイフォンの原理』をそのまま名づけられてしまう程度には、同様のものです」
自分の住むマンションは、玄関を入ってすぐ右側に四畳弱のキッチンがあり、その対面にトイレがある。廊下と言えるのはキッチンからリビングダイニングに続く一・五メートルほどの部分。その左側に洗面所への入り口があり、洗面所の奥にバスルームがある。
リビングダイニングは十五畳。主寝室は八畳。備え付けのクローゼットは主寝室のみ。狭すぎず広すぎず、独り暮らしにはちょうどいい。
主寝室はリビングダイニングと曇りガラスのスライドドアで隔てられている。普段、自分ひとりのときは冷暖房を入れない限りは開け放たれているが、今日はさすがに閉めてある。
珍しいつくりではない。しかし、人を呼ぶ、ということが想定されていないため、ダイニングテーブルもなければリビングテーブルもない。
キッチンカウンターの前にカウンターチェアーがひとつ。リビングダイニングの壁面には床から天井までの本棚。ほかには、リビングの三分の一を占める大きなデスク。
家電製品は冷蔵庫と電子レンジ、トースター、電気ポット。洗濯乾燥機にエアコン、電話機にパソコンくらいなもの。オーディオの類やテレビはない。
世間で起きていることは新聞から情報を得ることが常。もしテレビがあったとしても、電源を入れることはさほどなかっただろう。
時間さえあれば文献を読み漁るというのが自分のスタイルだったし、何よりも、それが自分の糧になり有意義な過ごし方だと思っていたからだ。
彼女が来るにあたり用意したものはひとつ。それは、コーヒーを注ぐためのカップ。
この家には食器も一組ずつしかなかった。これらが彼女の目にどう映っただろう……。
「何もない部屋でしょう?」
訊くと、彼女はゆっくりと部屋を見回す。
さして広くもない、くるりと一回転すれば見渡せてしまう部屋を。
「何もない、というよりは本がたくさんあります。それに、うちにはない手挽きミルやサイフォンがありました」
彼女はごく自然ににこりと笑む。
「……何もない、とはそいうことではなく――」
彼女が俺の手に触れた。
「人によって必要なものは違います。ここには涼さんにとって必要なものはすべて揃っていらっしゃるのでしょう?」
「っ……」
「でしたら、何もない部屋、ではなく、何もかもが揃った部屋だと思います」
このとき悟った。
俺はきっと、彼女に一生敵わない。そして、彼女以上の女性には出逢えないだろう、と。
「この部屋にひとつだけ、昨日まではなかったものがあります」
「そうなんですか……?」
「はい」
俺は彼女の手が触れていない右手でデスクに置いたカップをソーサーごと取り、それを差し出す。彼女は俺の手を放し、両手でそれらを受け取った。
「カップは一客しかありませんでした。そのカップは真白さんのために買ってきたものです」
「あ、お手数おかけしてしまってすみませんっ」
自分の気持ち上の問題だが、謝らないでほしかった。俺が欲しかったのは謝罪の言葉ではなく――
「どうして……どうして悲しそうな顔をされるのですか? 私、何か傷つけるようなことを口にしましたか?」
彼女の眉根が寄り、泣きそうな顔になる。
「……すみません、違います。ただ、ありがとう、と……謝らずに、ありがとう、と仰っていただけませんか?」
「え……?」
「そのカップは――自分が勤め、稼ぐようになってから、初めて自分以外の人へ買ったものです」
今日はすべてを話すつもりでいた。だから、どんな自分をも見せるつもりで話す。
「私のために……選んでくださった、もの?」
彼女は改めて手中にあるカップに視線を移す。
「ブランド品を選ぶのは簡単です。何が流行りで女性がどんなものを好むのか――そんなことは頼まずともショップの店員が教えてくれます。ですが……それは自分で選んだものです」
彼女が持つことを想像し、彼女の装いを踏まえたうえで、華美になりすぎず気に入ってもらえるものを、と選んだつもりだった。
「……嬉しいです」
彼女は驚きながら口にし、カップとソーサーを愛しむように見る。
「真っ白な陶器に金銀の細いライン……私、白い食器が大好きなんです。ありがとうございます」
最後の一言は目を見て言われた。欲した言葉を得られ、心が満ちる。「嬉しい」と感じる。
無機質な部屋に一輪、白く可憐な花が咲く。それは、殺風景な己の心に花が咲いたかのようだった。
デスクの椅子を彼女に差し出し、そこへ座るように促す。と、
「涼さんは……? どちらにお座りになるのですか?」
「自分はどこでもかまいません」
答えてフローリングに腰を下ろすと、彼女も同じようにフローリングに座る。
「普段、床には座り慣れてないのでは?」
「えぇ、畳でしたら慣れてますけど」
彼女はクスリと笑った。
「足が痛くなっても知りませんよ?」
「お話をしてくださる方を上から見下ろすよりもいいです」
こういうところに彼女らしさを感じる。
「……ラグかクッションを用意しておくべきでしたね」
手を加えない部屋を、ありのままの自分を見てもらおうと思って購入をやめたわけだが、早くも後悔し始めていた。
「少し待っていてください」
立ち上がり、寝室へ向う。
ベッドの上にたたまれているタオルケットを目にしつつ、これではクッション性に欠けると判断した。
クローゼットを開け、薄手の羽毛布団を下ろす。三つ折の状態でフローリングに敷き、
「せめて、その上に座ってください」
「涼さんは?」
先ほどと同じ問いが返された。
「自分はかまいません」
「……一緒に、座りませんか? 私が座っても半分は空きます。もし狭ければ二つ折りに……」
彼女は羽毛布団を広げようとする。
「真白さん――さすがに二つ折りではクッション性も何もないかと思うのですが……」
「えぇ、でも……」
どうやらとことん同じ場所、同じ目線でいたいようだ。
カウンターチェアに一度視線をやったが、いつも使っている椅子の四本の脚が異様なほど華奢に思え、不安定そうに見えてならなかった。自分も椅子に座るから、とは言い出せなかった。バランスの崩しようがない、安定した場所で話したいと思った。
「それでは――隣にお邪魔します」
自分の家だというのによそよそしく彼女の隣に並ぶ。
デートのとき、手を差し伸べることもあれば、車では常に隣に座っていた。けれど、これほどまでに距離が近かったわけではない。
俺は柄にもなく緊張していた。初めてオペに挑んだときより、何よりも。
それが、これから話すことに起因しているのか、それとも、隣にいるのが好きな人だからなのか――答えは出なかった。
部屋は適度にエアコンが利いていて、ギラギラとうるさい日差しはブラインドが遮ってくれている。
そんな中、俺は前触れもなく話し始めた。
「当時九歳の、少年の話です。――彼は自分の九歳の誕生日に両親を交通事故で亡くしました。その日は土曜日で、学校帰りに両親が車で迎えに来て、一泊二日で旅行に行く予定でした。学校に迎えに来る際、国道を走っていた両親の車に飲酒運転の大型トラックが突っ込み、両親はほぼ即死だったといいます」
この話を自分から人に話したことはない。
当時子どもだった自分は何を話さずとも、大人たちが勝手に詳細を伝えて事後処理までしてくれた。もし、その車に自分も同乗していて自分だけが助かったともなれば、そのときのことを思い出せる限りでいいから、と根掘り葉掘り訊かれたことだろう。
だが、俺は学校で両親の到着を待っていただけの――ただの子どもだった。
――「っ……!? 真白さんはまだ知らないのですか?」
――「バカもん……素性は調べるが、暴く趣味は持ち合わせとらんわ」
――「……ありがとう、ございます」
――「安心せい……。過去を知ったところで婚約を取り消すような娘に育てた覚えはない」
あの日の夕食会、縁側に呼ばれそう言われた。
自分の過去を人に話すなど、片手で足るほどにしかない。そもそも、自分から身の上話をすることはなかった。訊かれても、答える必要がなければ答えなかった。
けれど、彼女には話さなくてはいけない。
とくだん抵抗があるわけではない。狸が言っていたとおり、彼女は婚約を取りやめるとは言わないだろう。しかし――彼女の心に影を落とすことにはならないだろうか。
それだけが気がかりだった。
俺は狸に許可を求めた。
「真白さんを自宅へ招きたいのですが、お許しいただけますでしょうか」
『……変なところで律儀じゃの?』
「律儀なのではなく、ごく当たり前のことかと存じますが?」
まだ結納が済んだわけではない。
警護の人間がついているにしても、マンションの一室ともなれば密室と言えるだろう。
『かまわん。過去を話すときには資料があったほうがよかろう』
場所を自宅にした理由までもが読まれていた。
「ありがとうございます」
『おぬしに礼を言われると背中が痒くてならんわ』
おぉ痒い痒い、と言いながら通話が切れた。
今、目の前に彼女がいる。
自宅キッチンでコーヒーを淹れる用意をしていると、彼女は興味深そうに、カウンターからこちらをうかがっていた。
自分の手元にあるのは臼式の手挽きミル。コーヒー豆を挽くためだけに購入し、時間があるときは時間をかけて挽いていた。
「挽いてみますか?」
「よろしいのですか?」
「えぇ、かまいませんよ。……ところで、コーヒーはよくお飲みになるのですか?」
「胃の負担になるとうかがいましたので、普段はハーブティーを……。ですが、お茶のお稽古がありますから、完全にカフェインをカットしているわけではなくて……」
彼女はどこか後ろめたそうに話す。それはきっと、自分が消化器科の医師だからだろう。
「今はさほど胃が荒れているわけではありません。ですから、そんな顔をなさらなくても大丈夫ですよ。でなければ、私がコーヒーを用意するわけがないでしょう?」
笑いながら答えると、彼女は白い頬を真っ赤に染めた。
カウンターに手挽きミルを置き、彼女にはカウンターチェアーに座るよう促した。
「このハンドルを右に回してください。粉は下に、この引き出しへ落ちます」
実際に引き出しを引いて見せる。と、彼女はすぅ、と香りを吸い込んだ。
「いい香りですね」
「えぇ。どんな手順を踏んでも香りは堪能できますが、時間をかけて挽いたものは一味違う気がしまして。自分への褒美に、と買ったものです」
彼女がミルを挽き始めると、自分が挽くときとは違った不規則な間隔で音が鳴る。
ガリガリ……ガリ、ゴリ、ガリゴリ――
部屋に豆が砕ける音だけが響く。
しばらくすると、音は規則正しく鳴り始めた。
ガリゴリガリゴリ――
対面に座る彼女と会話はなく、香りだけがふわりと浮遊し広まっていく。
最後、キュルンと手ごたえのない回転をさせてから、
「できました!」
彼女は花が綻ぶような笑顔を見せた。
「ありがとうございます。では、コーヒーを淹れましょう」
彼女からミルを受け取り、フラスコに水を入れた。
彼女はまだ珍しそうな面持ちでこちらを見ている。
「サイフォンも珍しいですか?」
「あ……はい。自宅ではペーパーフィルターを使うか、エスプレッソマシーンを使ってしまうので、ひとつひとつ手作業でやるものは目にすることがなくて……」
言いながら、彼女は俺の手元をじっと見ていた。
アルコールランプに火をつけ少しすると、中の水がゆらゆらと動き出す。ボコボコと景気よく沸騰し始めたらアルコールランプの火を消す。フィルターに湯を通し、布巾で水気をおさえると、フィルターが冷めないうちにロートへセットし、ロートには彼女が挽いてくれた挽き立ての粉を入れる。
フラスコの沸騰が鎮まると、その上にロートをセットした。
再びアルコールランプに火をつけると、湯がロートの方へと上昇を始める。
湯が完全に上がりきる前に竹べらで粉を撹拌し、アルコールランプを少し弱めてから三十秒。再度撹拌してから火を止める。あとはフラスコにコーヒーが落ちるのを待つだけ。
夏はなかなかフラスコの温度が下がらずコーヒーが落ちてこない。いつもなら香りを楽しみながらその時間を過ごすが、今日は「相手」がいる。「客」がいる。
俺は濡らした布巾でフラスコを覆い、フラスコの熱を冷ました。すると、つ、と褐色の液体がロートから落ちてくる。
「……実験みたいですね?」
「そうですね。『サイフォンの原理』をそのまま名づけられてしまう程度には、同様のものです」
自分の住むマンションは、玄関を入ってすぐ右側に四畳弱のキッチンがあり、その対面にトイレがある。廊下と言えるのはキッチンからリビングダイニングに続く一・五メートルほどの部分。その左側に洗面所への入り口があり、洗面所の奥にバスルームがある。
リビングダイニングは十五畳。主寝室は八畳。備え付けのクローゼットは主寝室のみ。狭すぎず広すぎず、独り暮らしにはちょうどいい。
主寝室はリビングダイニングと曇りガラスのスライドドアで隔てられている。普段、自分ひとりのときは冷暖房を入れない限りは開け放たれているが、今日はさすがに閉めてある。
珍しいつくりではない。しかし、人を呼ぶ、ということが想定されていないため、ダイニングテーブルもなければリビングテーブルもない。
キッチンカウンターの前にカウンターチェアーがひとつ。リビングダイニングの壁面には床から天井までの本棚。ほかには、リビングの三分の一を占める大きなデスク。
家電製品は冷蔵庫と電子レンジ、トースター、電気ポット。洗濯乾燥機にエアコン、電話機にパソコンくらいなもの。オーディオの類やテレビはない。
世間で起きていることは新聞から情報を得ることが常。もしテレビがあったとしても、電源を入れることはさほどなかっただろう。
時間さえあれば文献を読み漁るというのが自分のスタイルだったし、何よりも、それが自分の糧になり有意義な過ごし方だと思っていたからだ。
彼女が来るにあたり用意したものはひとつ。それは、コーヒーを注ぐためのカップ。
この家には食器も一組ずつしかなかった。これらが彼女の目にどう映っただろう……。
「何もない部屋でしょう?」
訊くと、彼女はゆっくりと部屋を見回す。
さして広くもない、くるりと一回転すれば見渡せてしまう部屋を。
「何もない、というよりは本がたくさんあります。それに、うちにはない手挽きミルやサイフォンがありました」
彼女はごく自然ににこりと笑む。
「……何もない、とはそいうことではなく――」
彼女が俺の手に触れた。
「人によって必要なものは違います。ここには涼さんにとって必要なものはすべて揃っていらっしゃるのでしょう?」
「っ……」
「でしたら、何もない部屋、ではなく、何もかもが揃った部屋だと思います」
このとき悟った。
俺はきっと、彼女に一生敵わない。そして、彼女以上の女性には出逢えないだろう、と。
「この部屋にひとつだけ、昨日まではなかったものがあります」
「そうなんですか……?」
「はい」
俺は彼女の手が触れていない右手でデスクに置いたカップをソーサーごと取り、それを差し出す。彼女は俺の手を放し、両手でそれらを受け取った。
「カップは一客しかありませんでした。そのカップは真白さんのために買ってきたものです」
「あ、お手数おかけしてしまってすみませんっ」
自分の気持ち上の問題だが、謝らないでほしかった。俺が欲しかったのは謝罪の言葉ではなく――
「どうして……どうして悲しそうな顔をされるのですか? 私、何か傷つけるようなことを口にしましたか?」
彼女の眉根が寄り、泣きそうな顔になる。
「……すみません、違います。ただ、ありがとう、と……謝らずに、ありがとう、と仰っていただけませんか?」
「え……?」
「そのカップは――自分が勤め、稼ぐようになってから、初めて自分以外の人へ買ったものです」
今日はすべてを話すつもりでいた。だから、どんな自分をも見せるつもりで話す。
「私のために……選んでくださった、もの?」
彼女は改めて手中にあるカップに視線を移す。
「ブランド品を選ぶのは簡単です。何が流行りで女性がどんなものを好むのか――そんなことは頼まずともショップの店員が教えてくれます。ですが……それは自分で選んだものです」
彼女が持つことを想像し、彼女の装いを踏まえたうえで、華美になりすぎず気に入ってもらえるものを、と選んだつもりだった。
「……嬉しいです」
彼女は驚きながら口にし、カップとソーサーを愛しむように見る。
「真っ白な陶器に金銀の細いライン……私、白い食器が大好きなんです。ありがとうございます」
最後の一言は目を見て言われた。欲した言葉を得られ、心が満ちる。「嬉しい」と感じる。
無機質な部屋に一輪、白く可憐な花が咲く。それは、殺風景な己の心に花が咲いたかのようだった。
デスクの椅子を彼女に差し出し、そこへ座るように促す。と、
「涼さんは……? どちらにお座りになるのですか?」
「自分はどこでもかまいません」
答えてフローリングに腰を下ろすと、彼女も同じようにフローリングに座る。
「普段、床には座り慣れてないのでは?」
「えぇ、畳でしたら慣れてますけど」
彼女はクスリと笑った。
「足が痛くなっても知りませんよ?」
「お話をしてくださる方を上から見下ろすよりもいいです」
こういうところに彼女らしさを感じる。
「……ラグかクッションを用意しておくべきでしたね」
手を加えない部屋を、ありのままの自分を見てもらおうと思って購入をやめたわけだが、早くも後悔し始めていた。
「少し待っていてください」
立ち上がり、寝室へ向う。
ベッドの上にたたまれているタオルケットを目にしつつ、これではクッション性に欠けると判断した。
クローゼットを開け、薄手の羽毛布団を下ろす。三つ折の状態でフローリングに敷き、
「せめて、その上に座ってください」
「涼さんは?」
先ほどと同じ問いが返された。
「自分はかまいません」
「……一緒に、座りませんか? 私が座っても半分は空きます。もし狭ければ二つ折りに……」
彼女は羽毛布団を広げようとする。
「真白さん――さすがに二つ折りではクッション性も何もないかと思うのですが……」
「えぇ、でも……」
どうやらとことん同じ場所、同じ目線でいたいようだ。
カウンターチェアに一度視線をやったが、いつも使っている椅子の四本の脚が異様なほど華奢に思え、不安定そうに見えてならなかった。自分も椅子に座るから、とは言い出せなかった。バランスの崩しようがない、安定した場所で話したいと思った。
「それでは――隣にお邪魔します」
自分の家だというのによそよそしく彼女の隣に並ぶ。
デートのとき、手を差し伸べることもあれば、車では常に隣に座っていた。けれど、これほどまでに距離が近かったわけではない。
俺は柄にもなく緊張していた。初めてオペに挑んだときより、何よりも。
それが、これから話すことに起因しているのか、それとも、隣にいるのが好きな人だからなのか――答えは出なかった。
部屋は適度にエアコンが利いていて、ギラギラとうるさい日差しはブラインドが遮ってくれている。
そんな中、俺は前触れもなく話し始めた。
「当時九歳の、少年の話です。――彼は自分の九歳の誕生日に両親を交通事故で亡くしました。その日は土曜日で、学校帰りに両親が車で迎えに来て、一泊二日で旅行に行く予定でした。学校に迎えに来る際、国道を走っていた両親の車に飲酒運転の大型トラックが突っ込み、両親はほぼ即死だったといいます」
この話を自分から人に話したことはない。
当時子どもだった自分は何を話さずとも、大人たちが勝手に詳細を伝えて事後処理までしてくれた。もし、その車に自分も同乗していて自分だけが助かったともなれば、そのときのことを思い出せる限りでいいから、と根掘り葉掘り訊かれたことだろう。
だが、俺は学校で両親の到着を待っていただけの――ただの子どもだった。