不思議電波塔
アンティークな彩りで描かれたユニスたちの絵を、由貴は棚の上に立てて眺めてみた。
(四季にはこういうふうに見えたんだ)
四季の描く絵は好きだったが、自分の書いた物語を描いてくれた四季の絵は、見ていてまた違う種類の嬉しさがあった。
たぶん四季の絵だから嬉しいのだ。
他にどんなに上手い画家やイラストレーターが自分の物語の絵を描いてくれても、きっと同じ気持ちにはならない。
由貴はいつもと違う自分がいることに気づいた。
(そうか…。心を表現することって楽しいことなんだ)
今さらながらに、自分が感情を表に出すことが非常に下手な人間であることに気づく。
──由貴くん、お母さんが辛そうだったら助けてあげてね。
──うん。
倒れてはだめだと思った。冷静さを失っては。
それを失えば、失うものがたくさんあるように感じた。
自分でもよくわからないうちに、自分のつらいという感情を押し殺す人間になっていた。
そうして生きているうちに、自分がつらいのか何なのかもよくわからなくなり──何をしたいのかがわからない自分になっていた。
たぶん、そのままの自分では傷つくことが多すぎたのだろうと思う。
つらい気持ちをなくしてしまえばそれ以上傷つかずにすむから。
けれども、そうした感情の排斥は、何か他人の心との埋められない溝を作っているように感じた。
そうしたつらい感情を抱えたまま生きている人間は、思ったよりも多くいるように感じて、でもそれに気づいた時には、由貴はそういう生き方が出来なくなっている自分に気づいてしまった。
抱えていて傷つくと感じたから持つことをやめてしまった心と再び共存することは、無意味に傷つくだけでしかなかった。
生きるなら、幸せに生きられる心の方がいい。
出来るだけつらくならないように。
誰かを傷つけたいとか、妬ましいとか、そういった感情が向上心に繋がるとか自分を幸せにしてくれるとは、由貴は思わなかった。
つらくなってしまうだけだ。
人のものを羨んでも。
羨んだところで、望む通りになるわけではないし、たとえ望む通りになることがあるとしても、それで本当に幸せになれるとは思えないのに。