地球の三角、宇宙の四角。

近づいてきた彼に気が付いたアイドルオバサンは「きゃぁ」という短い悲鳴を上げ、両胸を隠すようにして縮こまった。

おじさんというか、おじいさんのその男は目線をキョロキョロとさせながら「すっ・すまない」と指で唇を何度も叩いたり、震える指を立てたり手の平を揺らしながら「お・お・おどろかすつもりはなかったんだ」と、どもったかと思えば恐ろしい早口で詫びた。

パタパタとスリッパをならしてアイドルオバサンは走り去っていった。その後ろ姿はアイドルというには遠くて、私もあと数年であんな体型になってしまうのかなぁなんて思うとなんだか切なくなった。

男性は頭をかいたり、唇を指で何度も叩いたりとあいかわらずせわしがない。「おどろかすつもりはなかった。き・き・き君に伝えたいことがあって。き・きみはいいかな?」

おじいさんを見る。目は合わない。その目は優しくて、あたたかい顔をしている。

「はい、なんですか?」この人の顔は見たことがある様な気がする。いつどこでだかはわからない。人は年を取ると顔が似てくるのかな。このしゃべり方も声も。

「そ。そ。そ。そうか、ありがとう。たた・たた・た立ち話も何だから部屋に入れてくれないかな。何、話をしておきたいことがあるだけでやましい下心なんかは、な、な、な。ないですから本当に、だから部屋に入れてくれないか?」

「なんの、話、ですか?」

「だ、だ、だ、だ大事な、とても大事な話だ。と。とても、とても重要だ」

「わかりました。 今日、これから手術なのであまり時間がありません。ここで少しだけなら」

「その、手術の話だよ。今日君は手術を受けてはダメだ」

おじいさんの表情が変わり、スラスラと流暢に話し出した。

「まず第一に、一番大事なことだ。アンタは病気なんかじゃない!」

なんでそんなことを、それになんでいきなりアンタなんて呼ぶんだろうか、めずらしくカチンとくる。カチンときちゃう。

「なんで、そんな事を」という私の言葉の途中に「わかった! うるさい!」とかぶせるように怒鳴られて、おじいさんは「アンタ病気なんかじゃないよ。いうなれば、そ・そうだな個性だ。個性。私も病気なんかじゃない。違う。精神疾患なんてのはな、ウソッパチなんだ。あいつらは何でもカンでも病気にしちまう。病気の種類まで新しくドンドンと作っちまう! 人類全員を病人に仕立て上げて全員を薬漬けにしてしまうつもりか! 人のことを食い物にしちまうつもりなんだろうが、そうはいかねぇ! ゆるさねぇよ!」大声で、早口で、まくしたてるようにおじいさんは話し出した。あまりの勢いで私の体の中身だけ細かく揺さぶられているようだ。【はゆみチャン。電子レンジの中はこんな感じらしいですよー。入ってみたことはーないけどもー】まただ。なんかテンションが高いなー声の人。ちいさな吐き気を感じる。サイアクだ。

「心を治すのは心なんだよ! クスリなんか飲んだぐらいで、なおるわけがねぇだろうが! 手術でなおるわけねぇだろうが? 心臓も脳みそもハートじゃぁねぇぞ! ハードなんだよ。魂や心、精神はソフトなんだ」

うまいこと言いますねー。でも、もうそろそろ解放してほしい。わたし、ひきよせちゃうのかなぁ……。
「あいつらなんにもわかっちゃいねぇ、」

はぁ……。

「科学や医学で心は治せない。治せるのは本物の宗教か、おかぁちゃんぐらいなもんなんだよ」

もう勘弁して下さい。

「とにかくな、アンタ。手術はやめとけ。人間に一回切り目が入るとそこからどんどんと漏れていくんだからな」

「は、はい……」

「精神疾患なんてもんは、ないんだよ」

「は、はぁ」

「精神疾患の歴史を知ってるか?」

ヤバい。この話は確実に絶対長くなる! そう思った。

「精神医学や心理学なんてのはな、100年の歴史がある長いと思うか? 短いと思うか?」

「な、なが……」

「うるさい! だまれ! 話を聞け!」

人に聞いておいてそれは無いと思う。おじいさんの話はそれで本を書けばいいのでは? というぐらいの精神科の歴史、細かなデータをまじえた事例、それに対する否定や批判が続いた。まちがいなくこの人は今のこの状態こそが病気だと思うし、私ももうすぐこの状態になるなということが何となくわかってしまうのが恐ろしかった。

今はこのおじいさんのズレがハッキリとわかる。たしかに誰かがここまでが正常、ここまでが病気と線を引くことは難しいと思う。私はおじいさんの話す姿を見ながらその熱意と知識がほんのわずかズレているだけだということが、そのうちわからなくなってしまうのではないのだろうか。そう思うとまともに話を聞けなくなってしまっていた。現に、自分は病気ではなくて、手術では治らないという私が私の中に、このおじいさんに会うまでにも、たしかに存在していたのだから。
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