桜の咲く頃に
 ある日を境に、不倫相手の携帯に電話しても、「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません」というメッセージが流れるようになった。
 男の家まで押し掛けることはためらわれ、最寄駅で数日間張り込みをしてみたが、男の姿を目にすることはなかった。
 職場にも聞き込みに行ったが、「無断欠勤が続いているが、連絡が取れない」と告げられるだけで、何ら有力情報は得られなかった。
 男の消息がわからないまま、女手一つで育てていく覚悟も自信もなかったけれど、一人で子どもを産んだ。
 子育ては想像以上に大変だった。
 生まれるとすぐ保育所に預けたが、熱を出したり腹を壊したりする度に、遅刻・早退、時には欠勤せざるを得なかった。職場の同僚に露骨に嫌な顔をされながらも、どうにか乗り切った。時には悔し涙を流すこともあったが、女を捨て母親として精一杯がんっばっていた。
 だが、それも新しい男ができるまでだった。
 一転して母であることより女であることを選んだ母親は、人が変わったように涼平を邪魔者扱いするようになった。
 涼平が何も叱られるようなことをしていないのに、殴る、蹴るの暴行は言うに及ばず、子どもの存在を否定するような暴言も浴びせられた。
「お前を育てるためにママは必死で一人でがんばってきたのよ。わかってんの? それなのにお前ときたら、ママの幸せの邪魔するだけで……元々お前なんか望まれて生まれてきた子じゃないんだから、いなくなりゃいいんだ」
 口答えなどしようものなら、暴行がエスカレートしたが、黙り込んでも、泣いても、暴行は続いた。
 涼平にできることは、母親の気に障らないように、子ども部屋の隅でヤモリのようにじっとしていることだけだった。
 どんなことをされようとも、涼平は母親からの愛情が諦められなかった。だが、いつまで待っても得られない愛情は、やがて黒い染みとなって徐々に心に広がっていった。
 命が奪われる前に救いの手が差し伸べられたが、すでに心に取り返しのつかない深い傷を負っていた。

 
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