桜の咲く頃に
 地下道の突き当たりに男子トイレのサインが見えてきた。
 ふと辺りを見回すと、一緒に巡回していた中年警備員の姿が見当たらない。いつの間にかいなくなっていた……。
 何だか気乗りがしないが、定期巡回のルートに含まれている以上、見回るしかない。
 入っていくと、公衆トイレ特有のつ~んと来るアンモニア臭が立ち込めていた。
 どういう訳か薄暗い感じがする、ちゃんと照明が灯っているのに。
 物音一つしない。誰もいないようだ、朝のラッシュ時が始まっているというのに。
 不意に背後に何か得体の知れない気配を感じた。
 すぐに後ろを振り向いても誰もいない。
 次の瞬間、カラカラと音がした。
 恐る恐る辺りを見回す。
 それは一番奥の個室から聞こえていた。トイレットペーパーを引き出す音のようだ。
 個室に怖々近付く。
 震える手でドアを押すと、鍵は掛かっていなかった。
 やっぱり誰も中にいないと気が抜けた瞬間、半開きになったドアの向こうにいやな気配を感じた。思わず後退りする。
 慌ててトイレを出ようとしたとき、個室のドアが開く音がして、反射的に振り向く。
 一番奥の個室から、白い服を着た髪の長い女が、血の気のない白い顔を半分覗かせていた。
 その場から一目散に逃げ出したことは言うまでもない。
 後日、巡回中に姿を消した警備員を問い詰めたところ、最初は何も知らないような素振りを見せていたが、しばらくして、言葉少なに話し始めた。
「あのトイレの一番奥の個室で4年前に女が自殺したんだ。一応巡回ルートに入ってるんだけど、暗黙の了解っていうか、みんなあそこだけは素通りしてるよ、気味が悪いからな」
 せっかく採用した新人にすぐに辞められては困るので、言いそびれていたらしい。
「信じないかもしれないけどな、『あのトイレの中で話をしてはいけない、自殺した女が付いてくるから』なんていう都市伝説まがいの噂まで流れてんだぞ」 
 そう言うと、にたにたと薄笑いを浮かべていた。 

 シュンシュンと聞こえてくる音に、立花は回想から覚め、慌ててガスコンロの火を止めた。朱茶色の急須を手にキッチンから戻り、二つの湯呑みにお茶を注ぐと、ようやく小畑と向き合うように腰を下ろす。
「さあ、ちょっと一息入れてください」
「あ、ありがとう」
「小畑さん、お風呂入られませんよね?」
「今日は朝9時上がりだから、うちに帰ってからゆっくり入るよ。それより朝までゆっくり休みたい」
 誰が好き好んでかびだらけの風呂になんか入るもんか! 使った後で掃除しろって言われたって、みんな疲れ切っててできる訳がない。こうなることは最初から目に見えてたんだ。
 小畑が言葉にしない、内に秘めた気持ちを、立花は察した。
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