桜の咲く頃に
 やっぱり……。
 ハヤトの脳裏に、忘れようとしても忘れることができないシーンが、まざまざとフラッシュバックし始めた。

 誰もいない駅の公衆トイレで用を足し、個室から出てくると、女子高生の腕をつかんで入ってきたおやじと出くわした。
 口元に薄気味悪い笑みを浮かべてやがった。
 このくそおやじ今からこんなかわいい子をやろうとしてやがるのか!
 すれ違うときに肩がぶつかった。
 てめえ、ぼこぼこにしてやろうか!
 振り向いて拳を振り上げた瞬間、背後からコツンコツンとハイヒールの靴音が聞こえてきた。
 まさか、入り口を間違えて女が男子トイレに入ってきやがったのか!
 振り返って確かめる必要もなかった。
 目の前で女がおやじに速攻を掛けていた。
 女の顔に目の焦点が合ったとき、深夜のコンビニ前でのシーンが脳裏を掠めた。
 あれは確か2週間程前のことだった。
 人の形をした黒い影の群れを女の背後に見たときの、背筋が凍りつくような恐怖が、全身を駆け抜けていった。
 はっと我に返ったとき、足元におやじの体が転がっていた。
 立ち去っていく女と目が合った瞬間、俺らは波長が合って共鳴した。
 ぎらぎらと光る女の目は憎しみに満ち溢れていた。
 女が出ていくと、俺は焦った。
 何もやってねえのに、俺がやったと思われちゃたまったもんじゃねえ。
 逃げ出すとき、公衆トイレ特有のアンモニア臭に混じって、くらくらするほど濃厚な薔薇の香りがしていた。

 メリーラムの脳裏にも同じ公衆トイレの場面が映し出されていた。
 この男を生かしておきたい。この男と一緒なら、いい仕事ができる。
 本気でそう思った。
 でも、もし今夜逝こうと決断したら、どうしよう? 止めることもできない。そんなことをしたら、このオフ会の趣旨に反してしまう。
 いつものようにトリを取るのは、チェリーフラワー。ピンクを基調とした、シンプルでおしゃれなチェック柄のトレンチコートをまとっている。三日月モチーフのネックレスが胸元にキラリと光る。
「お別れの時が来ました。それじゃ、みなさん杯を持ってください」
 各々の杯にペットボトルの水が注がれると、メリーラムの音頭で全員同時に静かに飲み干す。
「じゃあ、今夜逝く人は一歩前へどうぞ」
 メリーラムの一言で、時が止まったかのように空間が張りつめる。
 タツヒロとハヤトが無言で一歩一歩、ゆっくりと足を進める。
 やめて、ハヤト! まだ死ぬのは早すぎる。あたしと組んだら、あなたの命無駄にならないから、思い直して!
 メリーラムは心の中でひたすら祈った。
 
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