鈴姫
香蘭を抱きとめている秋蛍の瞳が揺れた。
どうしたのだろうと彼の様子を窺えば、その瞳とぶつかった。
そらせないままに見つめていると、彼の顔が近づいてきて、そっと唇が触れた。
何をされたかわからないほど、ほんの一瞬だけ。
香蘭は言葉も出せず固まって、離れていく秋蛍の顔を見つめた。
いま、秋蛍様は、私に。
そしてされたことを理解すると唇に指をやって顔を真っ赤に染めた。
そして秋蛍の腕から逃れると、振り返りもせずにただただ走った。
走っている間中、香蘭は頭の中がどうにかなってしまいそうだった。
どうして秋蛍様が。
どうして私に。
私はどうして…
「憂焔…」
胸の奥が痛んだ。
唇がまだ熱を帯びている。
甘い熱。
罪悪感と、不安感と、幸福感が入り混じって、じわりと涙が浮かんだ。
涙を流す資格などないというのに。
いつのまにか宿の側まできていた。
ほっと息をつくと、突然、後ろから腕を掴まれてびくりと肩を跳ねあげた。
手の大きさから、秋蛍か憂焔か。
香蘭は眩暈がしそうになりながらも、急いで涙を袖で拭い、振り返った。
振り返ってみて、青ざめた。
香蘭の腕を掴んでいる人物は、秋蛍でも、憂焔でもなかった。
だからと言って知らない人というわけでもなく、香蘭が一番顔をあわせたくなかった人物。