鈴姫


「無理を言ってごめんなさい。わたし、戻ります」


「待て」


秋蛍の焦った声が聞こえたが、逃げるようにして秋蛍から離れた。


しかしそれがまずかった。

香蘭が秋蛍のそばから離れた途端、短刀の加護を失った香蘭めがけて、まっていたとばかりに魔物の手が伸びてきたのだ。


「きゃあ!」


避ける間もなく黒い手につかまり、香蘭はぐんぐんと魔物のそばに引き寄せられる。


「香蘭!」


秋蛍が追ってくるが、間に合わないだろう。


もがきながらも、近づいてくる大きな口に半ばあきらめかけていた。


せめてもの抵抗に黒い手に爪をたてながら、ただただ、自分の愚かさを嘆いた。



迷惑をかけているばかり。



力になりたかっただけなのに、どうして手伝うこともできないのかしら……




涙を流しても逃げることはできない。


とうとう呑みこまれる、というとき―――


香蘭は、不思議な感覚を感じた。


一瞬だけ、息ができなくなって、何かの膜を通りぬけたような気がした。


そして、気づいた。



強い結界が張ってあったから、秋蛍さまは魔物に近づけずに苦戦していたんだわ!



黒い手は香蘭を大きな口の中に放り込み、香蘭は吸い込まれるようにしてその中に入った。


鋭い歯が香蘭を噛み砕こうとし、避ければざらざらとした舌が蠢いて歯のところへ追い立ててくる。


噛み砕かれた人間の死体の残骸が歯のあちこちにくっついているのを見て、背筋が凍った。

香蘭は必死で歯を避け、舌の動きに逆らい、口の奥へと進んだ。


< 257 / 277 >

この作品をシェア

pagetop