レガートの扉
こんなことなら開始時間に他のお客に紛れて来れば良かった、と今さらながらに感じた。
機材の調整や最終確認に追われるスタッフの姿を一瞥して、また小さな溜め息が漏れる。
「ただいま」
「っ、」
その刹那、意識を浚う低い声によって勢いよく振り返った。
その先で目が合った瞬間。まるで体内スイッチがオフしたかのように、私はピタリと静止する。
「律歌、ただいま」
「の、ぞむ」
「言ってくれないの?お帰りって」
「お、かえりなさい」
“ただいま”と心地よい声でもう一度言い、彼は隣の椅子を引いて座った。
嘘ではないか、夢を見ているのではないか?――私にとっては、それほど非現実な光景であるのだ。
ジッと凝視していた私に、望は涼やかな目を細めて穏やかな顔で笑う。
「変わってないね」
「変わらないわけないでしょ。髪も切ったし」
「律歌は変わんない。いや、…綺麗になった」
「はいはい、リップサービスありがと」
でも不思議なことに、あんなに乾いていた口は、彼の態度につられて滑り始めた。