ワケあり!
 一時間たっても。

 二時間たっても。

 アキは、絹を呼びに来なかった。

 浮いていた気持ちが、だんだん下へと降りてゆく。

 地面に降り立ってなお、更に沈んでいく気分だ。

 二時間半ほどだって、ようやくノックがきた。

 慌てて立ち上がると、返事より先にドアが開けられる。

「申し訳ありません…急いで」

 ただ、呼びに来たのではない。

 アキは絹の腕を取ると、そのまま部屋を飛び出し、階段を駆け下りたのだ。

 理由は分かった。

 階段の踊り場を回ったら、見えたのだ。

 ボスは、帰ろうとしているところだった。

「先生!」

 腕を引かれながら、絹は彼を呼んでいた。

 振り返る眼鏡の縁が、明かりに反射する。

「先生! 少し私とお話を!」

「巧…」

 引き止める絹に、見送りに出ていたチョウも、呼び止めようとしてくれた。

「すまないが…時間がない…また来る」

 軽く片手を上げて――ボスは、ドアを出て行ってしまった。

 あぁ。

 無事なのは、姿を見て分かった。

 しかし、それを手放しでは喜べない。

 絹を、避けているように感じたのだ。

 階段の一番下で。

 動きを止めたアキに腕を取られたまま、絹は立ち止まった。

「アキさん…私の部屋にお茶を二つ、新しいのをお願いできるかな」

 チョウが、彼女に頼む。

「はい、了解いたしました」

 返事をしながらも、絹から手を放すべきか、彼女は少し逡巡しているように思えた。

 しかし。

 絹の手は――アキから、チョウへと受け渡されたのだ。

「絹さん…少し話があるんだが、時間は大丈夫かな?」

 にこり。

 アキの手とは違う、少し低い温度の手。

 絹は、それに手を引かれて二階へ戻ったのだった。
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