ワケあり!
 将は、動けない。

 言葉も発しない。

 ただ、じっと。

 まばたきもせずに、腕にかき抱いている桜を見ている。

「私…ちゃんと死に直すの…よかった…今度は寒くないもの…」

 震える指が、将のシャツを握る。

「子供たちにも伝えてね…愛してるわ…愛してるわ…あい…し」

 力を失いゆく身体。

 すべり落ちる指。

 将は、無言のまま──ぎゅうっとその身体を抱いた。

 アキが、頭をゆっくりと垂れる。

 本当の意味で、現状を理解しているのは絹だけだというのに、彼らは本能で察していたのだ。

 それが、「誰」なのか。

 まがいものだ。

 トレーサーは、まがいものを作る装置だ。

 人の、心や個性を踏みにじるもの。

 だが。

 ほんの短い時間だったが。

 それは──桜だった。

 北の女王の顔と、広井家の女の顔を持つ、誰にも真似できない存在。

 絹は、目をそらした。

 見ていられなかった。

 目をそらすのは、なんて簡単なのだろう。

 ただ、身体を前に戻すだけでいい。

 そして燃えゆく建物や、桜の木を見ていればいいのだ。

 だが、自分が目をそらしたのには、理由があったのだと──絹は、遠い意識で気づいた。

 誰かが、その運命を彼女に握らせたのだと。

 ああ。

 運命に導かれるまま、絹は動いていた。

 へたりこんでいた自分の足に、力を吹き込まれる。

『あんなんじゃ、いつか死ぬぞ』

 声が、フラッシュバックする。

 そして。

 割って入っていた。

 人としての気配すら置き忘れた「それ」と、アキの背の間に。

 振り下ろされる、きらめく光。

 パァァンっと。

 自分の仮面が真っ二つに割れた──音がした。

 赤く散る視界。

 あーあ。

 他人事のように、絹は思った。

 どうせなら、ボスの盾になりたかったな。

 女の盾になったと知ったら。

 きっと…ほめてくれ…。

 ない。
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