罠
本文
「まずはパンツを穿け。話はそれからだ」
うつ向いたまま、チラチラと水槽の泡を見た。平日の朝、身に降り掛かった災難を本気で嘆く。
「先生……。穿いたら私の話を聞いてくれる?」
聞くも何も、顔を上げる事も出来ない。
「勿論だ」
「じゃ、もう顔を上げていいよ」
「そんな手に引っ掛かるものか。穿いたフリをしただけなんだろう?」
「なんで?」
「早すぎる」
僕は脳天を向けたまま、もはや微動だにさせない。
「分かったわ。当たり。でも安心して。もう穿いたから」
「君は頭が良いが、狡猾だ。また僕を騙そうとしている」
「そんなことないわ。買い被りすぎよ」
「すまんが褒めてはいない」
「あら、そう。でも、もう本当に大丈夫だから」
僕は思いきって、顔を上げた。
「ヤダ、先生。目を開けて下さいよ」
「バカを言うな。君の事は知り尽くしているんだぞ」
「嬉しい」
「おい! ヘンな意味でとるんじゃない。担任として、だ」
彼女を指差したものの、人指し指が震えている。
「でも、一緒に住んでいて、こういうの……無駄な抵抗じゃありません?」
「僕はただ、ゴミを出しに行っただけだ。一緒に住んでなどいない」
「鍵、掛けないんですか?」
「反省している。今度からそうすると、固く誓った」
「ハイ、穿きました。穿きましたよ、先生」
「……まだ、僕のシャツを着ているだろ?」
「当然じゃないですか」
「返してくれ。それしかないんだ」
「じゃ、脱ぎます」
「何も付けてないの?」
「拝借した先生のシャツを直に着る。この肌触りが良いんです」
「君の目的は何だ?」
「私の肌の温もりを、先生に感じて貰うこと」
思わずシャツと触れ合う若い女性の肌を想像してしまい、体が火照る。体の中心が硬直しないよう、歯を食い縛って耐えた。
「……このままでは、君も僕も遅刻してしまう」
「散歩がてらに、一緒に登校すれば良いですよね」
「大丈夫か? 思考回路」
言い過ぎた、と思った。しかしそれも、すぐに吹き飛んだ。
「私は路上で倒れていた先生を助けたんです。偶然、クラスの卒業文集を届けに伺って」
まさに、突飛な言い草だった。固く目を瞑ったまま、面食らった。
「どういう意味だ?」
「覚えてないんですか? 私たち、昨日卒業したんですよ」
これは僕を陥れる巧妙な罠だ。いや、それも違う。思考回路がようやく働き出した。混乱して、取り戻すのに十秒以上掛かった。
「つまり、その……」
「いつまで私をこのままにしておくつもりなの? もう、いいでしょう? 目を開けて下さいますか?」
半ば叱られ、瞼の隙間から、ゆっくりと光が差し込む。
「お帰りなさい。これが、貴方のゲンジツよ」
彼女はネクタイを回すと、きゅうと小さくなるまで僕の首を締め上げた。
うつ向いたまま、チラチラと水槽の泡を見た。平日の朝、身に降り掛かった災難を本気で嘆く。
「先生……。穿いたら私の話を聞いてくれる?」
聞くも何も、顔を上げる事も出来ない。
「勿論だ」
「じゃ、もう顔を上げていいよ」
「そんな手に引っ掛かるものか。穿いたフリをしただけなんだろう?」
「なんで?」
「早すぎる」
僕は脳天を向けたまま、もはや微動だにさせない。
「分かったわ。当たり。でも安心して。もう穿いたから」
「君は頭が良いが、狡猾だ。また僕を騙そうとしている」
「そんなことないわ。買い被りすぎよ」
「すまんが褒めてはいない」
「あら、そう。でも、もう本当に大丈夫だから」
僕は思いきって、顔を上げた。
「ヤダ、先生。目を開けて下さいよ」
「バカを言うな。君の事は知り尽くしているんだぞ」
「嬉しい」
「おい! ヘンな意味でとるんじゃない。担任として、だ」
彼女を指差したものの、人指し指が震えている。
「でも、一緒に住んでいて、こういうの……無駄な抵抗じゃありません?」
「僕はただ、ゴミを出しに行っただけだ。一緒に住んでなどいない」
「鍵、掛けないんですか?」
「反省している。今度からそうすると、固く誓った」
「ハイ、穿きました。穿きましたよ、先生」
「……まだ、僕のシャツを着ているだろ?」
「当然じゃないですか」
「返してくれ。それしかないんだ」
「じゃ、脱ぎます」
「何も付けてないの?」
「拝借した先生のシャツを直に着る。この肌触りが良いんです」
「君の目的は何だ?」
「私の肌の温もりを、先生に感じて貰うこと」
思わずシャツと触れ合う若い女性の肌を想像してしまい、体が火照る。体の中心が硬直しないよう、歯を食い縛って耐えた。
「……このままでは、君も僕も遅刻してしまう」
「散歩がてらに、一緒に登校すれば良いですよね」
「大丈夫か? 思考回路」
言い過ぎた、と思った。しかしそれも、すぐに吹き飛んだ。
「私は路上で倒れていた先生を助けたんです。偶然、クラスの卒業文集を届けに伺って」
まさに、突飛な言い草だった。固く目を瞑ったまま、面食らった。
「どういう意味だ?」
「覚えてないんですか? 私たち、昨日卒業したんですよ」
これは僕を陥れる巧妙な罠だ。いや、それも違う。思考回路がようやく働き出した。混乱して、取り戻すのに十秒以上掛かった。
「つまり、その……」
「いつまで私をこのままにしておくつもりなの? もう、いいでしょう? 目を開けて下さいますか?」
半ば叱られ、瞼の隙間から、ゆっくりと光が差し込む。
「お帰りなさい。これが、貴方のゲンジツよ」
彼女はネクタイを回すと、きゅうと小さくなるまで僕の首を締め上げた。