踏みにじられた生命~紅い菊の伝説1~

使い魔

 その夜、美鈴の瞼が開いた。
 既に消灯時間が過ぎていたのだろう、病室の中は暗く静かだった。
 夜勤の看護師だろうか?足音を立てまいと歩いている人の気配が伝わってくる。
〈私は何故、ここにいるのだろう?〉
 美鈴は暗い天井を見つめて記憶を遡ろうとした。だが、どうしても黒い人物が襲ってきたところから記憶がぷっつりと切れている。まるでライトのスイッチが突然切られたように途切れているのだ。
 だから自分が腹部に怪我を負い、この病室で横たえていることが信じられなかった。
 けれども私はここで横になっている。私の記憶が途切れた後に何かが起こったのだ。
 美鈴はもう一度記憶を遡ってみた。
 だが何度遡ってみても同じところで記憶は途切れていた。だだ、記憶が途切れる前に美鈴は何かを聞いたことを思い出した。それは心の底から呼びかけるような声だった。確かこう言っていた記憶がある。
〈私に替われ!〉と…。
 そう、確かに心の中から聞こえてきた。聞こえてきたのだが、それは自分でも、自分の一部でもない。正体は分からないが何か異質のものだ。まるで自分の中に別の人間がいるような感じがした。
 この奇妙な感覚は何なのだろう?そして何時から始まったのだろう?
 美鈴はその答えを自分は知っている、奇妙な確信が心の中にあるのを感じた。
 その時、窓の外で何かが動いた。こちらをじっと見つめる視線を感じた。獣のような鋭い視線、それはあの悪夢の時に感じたものに似ていた。
 美鈴は恐る恐る窓の外を見た。
 そこに二つの光るものがあった。一つは青く、一つは茶色く光っている。その光を黒く艶やかに光る獣毛が包んでいる。目を凝らしていいると次第にその姿が闇の中から浮かび上がってきた。
 それは猫だった。
 左右の目の色が異なる碧眼というものを持った黒猫だった。
 しかし、美鈴はそこに猫がいることが不自然に思えてきた。美鈴のいる病室が何階にあるのかは分からなかったが、少なくとも三階以上の高さにある筈だ。また、窓の向こうには足場になるものもなかった筈だ。だからそこに猫がいること自体、不自然なのだ。
 それでも猫は窓の向こうにいて美鈴の方を見つめていた。その視線は獲物を狙うものではなく、主人に従うもののそれだった。

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