踏みにじられた生命~紅い菊の伝説1~
 退院の日、美里が迎えに来た。
 既に抜糸を済ませていた美鈴は母の持ってきた普段着に着替えて、退院の準備を済ませていた。それは意外と楽に済んだ。母は二日分の用意しかして来なかったからだ。美鈴は母の勘の良さを改めて知ることになった。
「美鈴、準備は出来た?」
 担当医師とナースステーションにいた看護師への挨拶を済ませた美里が病室に入ってきた。
 美鈴は支度を済ませた鞄をベッドの上に置き頷いた。
「じゃ、行こうか」
 母の言葉を切っ掛けにして二人は病室をあとにした。
 
 病院を出ると街角の喧騒が美鈴にどっと押し寄せてきた。たった三日しか世の中から離れていないのに、病院の中とその外ではこれほども違いがあるのか、美鈴はそう感じた。 病院からアパートまでたいした距離ではないので二人は歩いて帰ることにした。そうしているうちに美鈴の体は外の世界へ順応してきた。
 病院から数分歩いた頃、物陰から一匹の黒い猫が飛び出してきて、美鈴の足に纏わり付いた。その猫は人懐こくごろごろと咽を鳴らしている。まださほど大きくない。どうやら子供のようだ。
 ひとしきり猫は纏わり付いた後、美鈴の前に回って座り込んだ。その姿は子猫にしては自信に満ちて凛々しくさえ思えた。不意に一声なくと猫は美鈴をじっと見つめた。
 見上げてきたその顔を見るとその瞳は碧眼だった。
 その猫はあの夜病室の窓の外にいた黒い猫だった。
「あら、やっと出てきたのね」
 そう言って美里は猫を軽々と抱き上げた。どうやら彼女はその猫のことを知っているようだった。
「お母さん、その猫知っているの?」
 美鈴は突然湧いてきた疑問を母にぶつけてみた。
「ええ、知っているわよ。この子の親はあなたが生まれるまで私に憑いていたもの」
「憑いてきた?」
「そう、この子はあなたの使い魔。いつもあなたの傍にいてあなたを守ってくれるもの」 美里はそう言いながら子猫の体をそっと撫でている。
「でも、家ではペットは飼えないよ」
「大丈夫。大家さんは遠くに住んでいるし、この子は静かだもの。黙って飼っても判りはしないわ」
 こういうところも母にはあったのだ。自分に必要なものがあった場合、どんな理屈でもつけてくる。美鈴はそれに何度か振り回されたことがあった。
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