私の好きな人は駐在さん
原稿を書き終え、デスクの机に置いた時には、もう会社にいるのは私だけになっていた。
窓の外は漆黒の闇で、宝石をちりばめたようなネオンサインが遠くに見えた。
うーん、背筋を伸ばした。もう長い間机に張り付いていて、こんなに時間が経っているのも、こんなにみんな退社していたことも全く気が付かなかった。
寝に帰るだけか。
そう思って、かちこちになった体をほぐしながら帰る身支度をして、恐ろしいくらい静かな部屋を後にした。
道に、カツカツと、自分のヒールの音だけが規則正しく響く。
はぁ、っとはく息が真白く闇を切り裂き、天にのぼってゆく。
さ。早く帰んなきゃ。終電逃しちゃう!
そう思って、駅へ向かう歩調を速めようとしたとき、
私の目を釘付けにする、あの姿。
私の胸をかきみだし、血をほとばしらせ、鼓動が早くなるよう、タクトを振る、あの人。
はっと息をのんだ。
かっとなった顔に、凍てついた夜風がむしろ心地よいほどだった。
その人影は、ゆっくりと帽子を右手で触って、かるく会釈をした。
もう、その動作一つとっても、芸術的なのだ。
光り輝いて、この世にまたとない尊いものに思われる。
私は、急いで、頭をさげた。
「あれ、今お帰りですか?」
渡部さんは、自転車をこちらの方に押してきながら、そう言った。
少し距離があったので、その距離を埋めるように、渡部さんはいつになく、大きな声を出していた。
その声も、低さの中に、少年のような無邪気な高さが混じったような透き通った声で、冷たさでかじかんだ耳をまるでほんのりとかしてゆくかのようだった。
すべてが新鮮で、すべてが私をきゅんとさせる。
まるで魔法である。
私は、彼のその問いかけに、こくりと頷いた。
「遅くまでご苦労様です。本当に。」
そういって、彼は私の目の前までやってきた。
真っ暗だったはずなのに、なぜか彼の周りだけぼんやりと光をまとっているかのように、はっきりと彼の姿を見ることができた。
「原稿の、締切が、迫っていたものですから。気付いたらもうこんな時間で。夢中で、書いてたら。」
ペンを走らせるジェスチャーをしながら、私はぎこちなく答えた。
「そういえば、出版社にお勤めなんですよね、すごいなあ。何の原稿を書いてるんです?」
無邪気な笑顔をたたえながら、彼は尋ねた。