ビロードの口づけ
 父はあれ以来、過剰なまでにクルミが外部と接触するのを嫌うようになった。
 以前は母と共に顔を出していたパーティや社交の場にも出してもらえなくなったのだ。

 五年前の記憶をたどりながら、その後の五年間が空虚なものに思えて心は沈んでくる。

 話しながら自然と俯いていた。

 通学路で会った獣の事はほとんど覚えていない。
 出会い頭に獣よけの香水を吹きつけて逃げ出したので、姿もろくに見ていない。
 特徴といわれても、熊に似ていた事くらいしかわからない。

 一方、寝室に入り込んだ獣の事はよく覚えている。
 真っ黒で大きな猫のようだった。

 口には鋭い牙があって、舌はザラザラしていた。
 散々舐められたが、イヤな匂いはしなかった。

 そして父にも話してはいないし、ジンに話すつもりもないが、クルミはあの獣にもう一度会いたいと思っていた。

 顔や首筋に触れた獣の毛並みはシルクのようになめらかで、月光を浴びて窓辺に立つ姿は美しいとさえ思えた。
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