ビロードの口づけ
 学年が違うのでなかなか会う機会がなく、しばらくしてお礼を言ったら先輩はすっかり忘れていたらしい。
 思い出すのに少し時間がかかった。


「大したことじゃないからお礼なんていいよ」と先輩は笑っていたが、クルミだったから傘に入れてくれたわけではなかったのだと、ひどくガッカリしたのを覚えている。

 フェロモンで大勢を引きつけるよりも、自分が想うたったひとりの人に振り向いてもらえればそれでいいと思う。
 獣向けフェロモンのせいで外に出られないクルミには、それすら遠い夢となってしまった。

 あの夜からクルミは、寝室に入ってからもあまり落ち着けなくなった。
 ジンが窓の外にいると分かっているので、そんなに夜更かしもできない。

 二人きりになると豹変するジンは、嫌がらせで抱きしめたり、意地悪で泣かせたりするので、なるべく関わり合いたくなかった。

 なにげなく鏡の中の胸元に視線を落とす。

 数日前、勝手に部屋に入ってきたジンが嫌がらせでクルミを抱きしめながら「胸が大きい」と言った事を思い出した。
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