悩みの意義


「いいですけど、変なことを言うんですね。先生が生徒に悩み相談だなんて」


 くす、と笑い声が聞こえた。

 はじめは自虐の笑いだと思ったが、間もなく、実は私を嘲笑う声だと気付くことになる。


「どうしてです、人が人に相談するのはごく自然なことでしょう。ただ相談相手が年下の生徒であった、それだけですよ」


 反論の意は起こらなかった。

 いや、起きたところで反論の余地はないのだが。

 私は気付いていなかったのだ。

 私と先生の間に壁がある限り、私は私の、先生は先生の世界に閉じこもるのだと思っていた。

 しかし実際、私は自ら先生の世界に足を踏み入れつつあった。

 私はそれに気付かない。


 もはや私にはシャープペンシルを動かす気はなく、背後の声を無意識に期待していたのだ。

 そう、期待しすぎていたのだ。


「最近、妻が私にかまってくれないのですよ」


 私は馬鹿だった。

 何を期待していたのか、と問われれば私自身わからないので答えようがないが、それでも期待を裏切られた心地が胸に残ったのだ。


「……くだらない」

「そんな、何がくだらないと言うのですか!」

「その悩みですよ、幼稚な!」

「真剣な悩みに幼稚も大人びるもないでしょう!」


 埒が明かないという言葉の意味を痛感した気がする。

 気付けば私は振り返っていた。

 私の瞳は、先生の全てを見透かしたような瞳に捕らえられた。


「では、貴女はよほど意味のある悩みを抱いているのですか、言ってみてくださいよ」


 先程までの躊躇は消えていた。

 それがすなわち、私と先生の間の壁の崩壊を意味するということを、冷静さを失った私が気付くわけがない。


「私は理系として勉強しているけど、このまま理系でやっていけるのか、文系にうつるべきか、不安なんですよ!」


 強く言い切ったというのに、先生が反論するまで一寸の間もなかった。


「ほら、くだらない」


 私が長い間溜めていた悩みの塊は、気付けば先生の手によってばっさりと切り落とされていた。

 かえって清々しさを覚える程に。

 私は唖然とした。


「くだらなくなんかないですよ! 先生の悩みに比べたら私の方が……」

「いえ、くだらないです。そしてありきたりな悩みです。誰だって一度はね、ふとそんなことを考えるものですよ」


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