ユアサ先輩とキス・アラモード
田中は左手で敬礼すると、言われた通り一番左の的だけ置いて作業を続けた。
 三十分後、射場には湯浅と真帆だけになった。二人しかいない空間は、かすかな衣擦れの音さえ大きく鮮明に聞こえる。時折近くにあるグラウンドで練習している野球部員の、『ウォーッ!』と言う歓声や、カッキーン!と言う金属音以外は、葉のカサカサと風になびくくらいしか聞こえない。
 真帆は湯浅の存在を強く感じずにいられなかった。
 だからだろうか、真帆の心臓はいつもより早く鼓動を打っていた。顔も熱い。いや、全身熱い。実は風邪をひいていたのだろうかと錯覚するくらい、熱い。この後一時間も大好きな湯浅と二人きりになるのだと思うと、さらに熱くなった。
(湯浅先輩を独り占めしているみたい!)
イケナイ妄想が頭の中で暴走し始めた。嬉しくて幸せで、ちゃんと練習できるかわからなかった。
 当の湯浅は真帆のイケナイ妄想などまったく感知していないのだろう、アゴに手をあて何やら思案中である。伏せ目でいる姿がとても様になる。チラリと見た、めったに拝めない光景に、気が付けば真帆は釘付けになっていた。
 すると、フッと彼の目が真帆の視線をとらえた。真帆は気づかれたと知り、慌てて右横遥か前方にある的を見た。
「どうだ、良い男だろう?」
「何の事ですか?」
「どこへ行っても見られっぱなしだ。おかげでお肌のお手入れに気が抜けない」
「先輩、しているんですか?」
「あたりまえだ。身だしなみを整える事は、世間に貢献する事の一つだ。カッコ良い男や美しい女は、見ていて気持ちいいだろう?」
「それはどうですけど」
「中林はしていないのか?」
真帆は言葉につまった。いつも顔を洗って日焼け止めを塗るだけ。ほぼ洗いざらしである。
(耳が、痛い……)
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