運命の人
 興奮状態になっている叶子を静める為に、ジャックは何も言わず彼女を抱き寄せた。最初の方こそ腕の中で暴れ泣き叫んでいた彼女も、次第に落ち着きを取り戻した。

 ジャックは叶子の肩を抱き、彼の部屋へと場所を移した。
 ソファーに腰掛けてもなおヒックヒックとむせび泣いている彼女は、まるで小さな子供の様だった。そんな叶子の肩を抱き寄せると、額に口づけが落とされる。愛おしいとばかりに身体全体を包み込むようにして叶子を抱き締めた。
 大きな手のひらが何度も背中を撫で付ける。ジャックの温もりと匂いを感じるだけで、どんどん気持ちが穏やかになっていった。

「……変な事言ってごめんなさい」

 力の無い声で叶子が呟いた。

「いいんだ、本当の君の気持ちが聞けて嬉しいよ。そもそも君が謝る必要なんてない、僕が悪いんだから」
「もう大丈夫だから。ちゃんと話を聞かせて」

 その言葉にジャックは少し距離を取ると、叶子の小さな掌をぎゅっと握りしめた。揺るぎない視線を向けるジャックは、今から真実を語ろうとしているというのがわかった。

「僕の父はアメリカ本社にいてね。未だに現役で随分頑張ってたんだけどさすがに歳には勝てないのか、僕が代わる事になったんだ。カナに出会うずっと前に僕の方から何度も打診してたんだけど、父は強情な人で。でも、まさか今になってそれを持ち出してくるなんて、皮肉だよね」

「こっちは……日本の会社はどうするの?」
「ココは僕の兄のブランドンが代わりに引き継ぐらしい」
「アメリカの会社は貴方で無いとダメなの?」

 彼は黙って頷いた。

「仕事もそうだけど、僕の両親ももう高齢だからね。そろそろ近くに居てやりたいって気持ちはあったんだよ」
「……。」

「今日、君に会ってこの事を話したかったんだけど中々言い出せなくて。驚かせる事になってしまって本当にごめんね」

 ジャックの言葉に叶子はハッとした。確かに電話で話した時、彼も話があると言っていた。なのに、自分の事ばかりで浮かれていて、彼に話すチャンスを与えずに居たのだという事に今更気付いた。
 そんな彼を責めるなんて筋違いもいいとこだと、心の中で激しく叱咤した。

「あ……、私があんな話しちゃったから」

 固い表情を浮かべた彼女に、ジャックは黙って頭を振った。

「今日僕はね。アメリカに一緒についてきて欲しいって、言うつもりで居たんだ。でも、あんな君の嬉しそうな顔を見たら、とてもじゃないけど自分の都合でせっかくの君のチャンスを台無しにするなんて事出来ないなって」

 思い出したら又感極まったのか、ジャックの目が少し赤くなってきた。

「その……、いつ日本を発つつもりなの?」
「下半期が始まる頃、6月にはもう僕主導で行きたいから、5月頭には向こうに行かないと」
「5月!? もう1ヶ月とちょっとしかないじゃない」
「……。」

 ジャックは何も言わず、ただ悲しげな顔で叶子を見つめていた。

「私、……行く」
「え?」
「私もアメリカ行く!」
「カ、カナ、仕事はどうするの? せっかく掴んだチャンスでしょ?」
「アメリカで探すわ」
「カナってその、……英語話せるの?」
「うっ、な、なら話さなくてもいい仕事を探すわ。ビルの掃除係とか」
「ダメだよ! 君は才能があるんだから。今の仕事を続けないと僕が許さないよ」

 ついて来て欲しいと言ったかと思えば、今度はついてくるなと言う。そんなジャックと自分の気持ちは、同じものではないのかと一気に不安に駆られた。

「貴方はっ! ……私と離れても平気なの?」
「平気なはず無いよ。ただ、今の君の仕事を奪ってまでアメリカに来て欲しいとは思わないね。それに」
「それに?」
「本来ならちゃんとプロポーズしたい所なんだけど」
「プ!? プロッポッ!?」

 突然のその言葉に叶子は動揺を隠せない。ジャックはというと、落ち着いた様子で叶子をじっと見つめていた。
 ジャックは視線を落とすと、はぁーっと大きく溜息をついた。

「でも、僕はもう結婚は考えてないんだ」
「あ……。うん、そうよ、ね」

 ジャックは二度結婚に失敗していると言っていたのを思い出した。とても辛そうに話していたその時の様子から、もう結婚は懲り懲りなのだろうという事がわかった。

「でもカナは年頃の女性だし、やっぱり仕事を捨ててまでアメリカについていくならそれなりにケジメつけたいよね?」
「あの、私そんな事考えた事も無くて。な、なんて言っていいのか」

 ジャックは叶子の事を一番に考えてくれている。今回の事により、叶子は改めて自分の事しか考えてなかったのだと思い知らされた。

「君の為を思うと」
「……。」
「僕がここで身を引くのが一番いいんじゃないかと思う」
「身を引く、って?」

 その言葉が何を意味するのか本当は判っているくせに、それを認めたくなくて判らない振りをして問い返してしまった。ジャックが返事をするまでのほんの数秒が、何分、何十分にも思える瞬間だった。

「僕はアメリカ。君はこのまま日本に残っていい男性(ひと)を見つけて、ゆくゆくは結婚して幸せな家庭を持つ」
「そ、それってつまり。――別れるって事?」

 ドクンっと胸が一際大きな音を立てる。恐る恐る震える声で尋ねると、彼は黙って小さく頷いた。
 突如降って沸いた別れ話。目の前が真っ白になり意識が遠のいていく。
 今、目の前で起こっている出来事が、現実のものなのかどうかも判らなくなっていた。

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