運命の人
 叶子が住むマンションの前に車が止まり、いつもの様に彼女を部屋まで送って行こうとしたジャックはシートベルトを外した。

「──?」

 当の本人は車から降りる気が無いのか顔を俯かせ、重ねた自分の手をじっと見つめているのが気に掛かる。

(もうこれ以上引っ張るのは無理かな)

 今日、叶子と会ってから幾度となくこんな姿を目撃しては素知らぬ振りをして来たが、流石に自分でも意地が悪いと感じたのかジャックは半ば諦めたように叶子に問いかけた。

「どうした?」

 彼が声を掛けると、まるで魚が酸素を求めているように口を開けたり閉じたりしている。何かを吐き出そうとするも上手く出来ないのか、苦しそうに顔を歪ませた。
 ジャックはそれ以上何も言わず、彼女が話し出すのを待っていた。言わんとしている内容は彼女が醸し出す雰囲気で察しがつくが、自分にとって喜ばしくはないであろう事をわざわざ自分から促す気にはなれなかった。

「あ、のね?」
「ん?」

 沈黙が流れる。暫くして叶子が大きく深呼吸したのを合図に、落ち着いた面持ちで話し始めた。

「実はまだ会社に何も言って無いの」
「うん」
「驚かないの?」
「……驚いたよ?」

 ジャックは微笑みながらハンドルを抱え込み、

(とうとう言われちゃったな)

 と心の中で呟き肩を落とした。

 思っていたよりもリアクションの少ないジャックに、叶子の方が驚いていた。ジャックは全く気付いていないと思っていたのだろう、虚を衝かれたと言うような顔をしていた。
 今度はジャックの方が大きな溜息を吐く。そして、ハンドルを抱えたままフロントガラスの向こう側を見つめた。

「で? どうするの?」
「わ、かんない」

 後わずか一週間で日本を発つと言うのに、まだ会社に言っていない時点でこの答えは既に出たのも同然だろう。ジャックは叶子の方へと視線を移し、煮え切らない彼女に意地悪な言葉を投げかけた。

「じゃあ、別れる?」
「それは嫌っ!」

 即答する叶子に穏やかな笑みを浮かべていたが、内心、冷や汗ものだった。何度も確認したくなるほどの不安な気持ちは、未だ完全にぬぐいきれない。叶子の気持ちを確認する度、安堵した。
 艶やかな髪に手を伸ばし指を滑らせる。

「僕も……嫌だ」

 そう呟くジャックに、叶子は言葉足らずだったと慌てて言葉を足した。

「……あ! 貴方と一緒に居たいって気持ちは本当なの。でも、今の仕事を放り出してアメリカへ行く事が出来なくて。だけど必ず行くから! 少し遅れるけど一ヶ月。一ヶ月後には必ずアメリカに行くから! ってやっぱり我侭すぎるよね」

 ジャックは頭を振りながら、黒髪を滑る自分の指先を見つめている。髪を撫でていたその指が叶子の頬を包み込み、親指で頬をそっと撫でた。

「大人になるとどうしても自分の気持ちを押し殺してしまう。でも、君はちゃんと自分の意見を持ってるし、周りに流されるような人間じゃない。僕はそんな君の正直な所が好きなんだ。だから、君の好きにしてくれていいんだよ?」

 ジャックは精一杯の虚勢を張った。
 彼女を丸め込む策は幾らでもあったのに、もうほんの少しの嘘も彼女には吐いてはいけないのだと必死で自分を押し留めた。
 ぱあっと雲間から太陽が差し込んだ様に笑顔を見せた叶子を見て、皮肉な事に自分の決断は間違っていなかったのだと自覚する。

「ありがとう、ジャック」
「ん」

 叶子の方から自分の胸に飛び込んで来たと思ったら久しぶりに名前を呼ばれる。ここぞとばかりに甘い飴を与えられたジャックは、この時ほど勝手に緩み始める自分の顔が憎い思ったことは無かった。


< 91 / 97 >

この作品をシェア

pagetop