光のもとでⅠ
30
ここ二日と変わらない教室内の風景と空気。それも、四限のテストが終わるとガラリと変わった。
憑き物が取れたかのようにはしゃぐクラスメイはところどころで携帯の電源を入れたり、メールチェックをしている人の姿も目立つ。
大半の人は午後から部活動が待っているのだろう。クラスの半分はホームルームが終わった途端に教室から出ていった。
テスト前一週間から部活動停止になっていたため、みんなは体を動かしたくて仕方なかったのかもしれない。
飛鳥ちゃんはテストの出来を少々憂いつつも、海斗くんと佐野くんと先陣を切って教室を出ていった。
「飛鳥は元気ね」
桃華さんは言いながらかばんに荷物を詰める。
「みんなは普段運動しているのが普通だから……。ここ一週間は軟禁状態だったのかも」
そんなふうに答えると、
「まるで牢屋に入れられた猿ね」
桃華さんは少し呆れたように口にした。
「桃華さん、このあと時間もらえる?」
「……えぇ」
「話す、からね」
少し声が硬くなる。と、
「そこまで力まれるとこっちもかまえちゃうわね」
肩を竦めて笑われる。
「ごめんね。やっぱり少し勇気がいることなの。だから、どこかに力を入れてないと挫けちゃいそうで……」
無理矢理笑顔を作って答えると、
「翠葉、今日はお弁当持ってきてないわよね?」
桃華さんにしては珍しく話が飛躍した。
「うん……?」
不思議に思っていると、
「じゃ、桜香苑に移動しましょうか」
「え?」
「サンドイッチ作ってきたの」
言われて、そのまま手を引かれた。
外は風邪もなければお日様も出ていない。夕方には雨が降ってくるんじゃないだろうか、と思わずにはいられない雲が遠くに見えた。
「降ってこないといいけど」
桃華さんも空を見上げる。
たどり着いたのはいつものベンチ。
「内緒話の前に食べましょう」
昨夜苺タルトを食べ、今朝は柔らかく煮込まれたポトフを食べた。だから多少の固形は食べられると思うけど……。
不安を抱えながら覗き込むと、桃華さんが作ってきたサンドイッチはクリームサンドだった。
卵や野菜が挟まっているサンドイッチじゃなくて、甘さ控え目のホイップクリームと果物が挟まっている。
保冷機能のついたバッグに保冷剤と一緒に入れてあったので、少し冷たくて、それが余計に食べやすくしてくれていた。
「美味しい……」
「蒼樹さんからあまり食べてないって聞いてたから。テスト中は少しヒヤヒヤしてたのよ?」
……あ、れ?
「いつから蒼兄と連絡を取り合ってるの?」
「そうね……。いつだったかしら?」
考えてはいるようだけれど、具体的な日にちが出てくることはなかった。
サンドイッチを食べ終わると、
「さて、内緒話を聞かせてもらおうかしら」
私が芝生にペタンと座るものだから、最近は桃華さんも芝生に座るようになった。
上着のボレロを脱ぎ、左腕の長袖を腕まくりする。
「これ……なんだと思う?」
バングルを見せて訊く。
「触っても大丈夫?」
「平気」
桃華さんは中指と人差し指でなぞるようにバングルに触れた。
「一見して普通のバングルに見えるけど……。でも、それなら学校に付けてくる必要はないわね」
と、ひとつの答えを出す。
「うん、そうなの。普通のバングルに見えるけど、バイタルチェックをする装置」
「……なんでまたそんなものを?」
びっくりしつつ、「これが?」という顔をして、再度バングルに視線を戻した。
「秋斗さんが開発してくれた特注品。蒼兄と私へ贈られた誕生日プレゼントなの」
「誕生日近いの?」
「来月の一日で十七歳。蒼兄は来週の三十日」
「あら、お祝いしなくちゃ」
「ありがとう」
誕生日の話で少しだけ場が和む。そんな空気のところに、こんな話はしたくないんだけどな……。
「これ付けることになったきっかけは……」
私が具合が悪いことを人に言わないから――その一言が出てこない。
「私が……」
先を続けられない。話すって決めたのに――。
「私が――」
「具合が悪いことを人に言わないから」
口にできなかった言葉を桃華さんに言われて息を呑む。
「そんなの、少し考えればわかることよ。だから、毎日のように蒼樹さんや栞さんが張り付いているんでしょ?」
見ていたら――見ているだけでそんなことまでわかってしまうのだろうか。じっと桃華さんを見ていると、
「でも、なんで人に言えないのか……。それは知りたいわ」
黒いきれいな髪の毛を耳にかけ直してこちらを向く。
私は一度深呼吸をしてから口を開いた。
「具合が悪くて誰かに助けてもらうとき、ものすごく申し訳なくて自分が情けなくなるの。痛いのもつらいのも我慢できる。でも、人の負担になるのはすごくつらい。そういうことが何度か続くと必ず思うことがある。……自分がいなくなればいいのに、消えてしまえばいいのにって思う。そういう気持ちが溜まっていくと、具合が悪いこと、誰にも言えなくなっちゃうの。それで倒れてまた自己嫌悪。私の場合、時と場合によりけりだけれど処置が遅れると心肺停止する可能性があるでしょう? だから、私がそれをするのはすごく無謀なことで、自殺未遂となんらかわらないって――湊先生に言われるまで気づかなくて……」
言葉に詰まるとその先を続けることができなかった。
何度説明しても慣れない。自身のことと認めたくない。
そう思っていると、
「……要は無自覚ってことよね?」
コクリと頷く。
「それじゃ、その装置が翠葉の代弁をしてくれるのね」
桃華さんはまるで眩しい光でも見るようにバングルを見つめる。
「最近は蒼樹さんがベッタリ張り付いてないのにも納得」
と、桃華さんはクスクスと笑いだした。その反応すら私が予想していたものとは違って戸惑う。
何をどう……と予想していたわけではない。でも、話したあとにこんな笑顔を見られるとは思っていなかった。
「なぁに? 私の顔に何かついてる?」
「……どうして、どうしてそんなに普通に聞いてくれるの?」
「……とくに問題がないからよ。だって、翠葉は死にたくてその行動を取ってるわけじゃないのでしょう? あくまでも無自覚……。時に無自覚ほど怖いものはないけれど、でも、今はその装置がついてる。ならば最悪の状況を避ける道は確保されている。それなら何を怖がることもないわ」
強く、真っ直ぐな目を向けられた。
「学校って結構楽しいところよ? そんなに簡単になんでもかんでも諦めようとしないで? 私たちが寂しくなるじゃない」
少し拗ねたような、そんな表情。
「本当に……この学校は楽しいことばかりで、桃華さんやクラスメイトに出会えたことも幸せだと思ってる。でもね、やっぱり人の負担にはなりたくないと思うの」
最後まで桃華さんの顔を見て話すことはできなかった。
「だから?」
だから……? その先も言うの……?
「……だから、今が楽しければあとは欲張っちゃいけないと思うの……」
「だから何? 高校を辞める覚悟もしてるっていうの?」
自分でもはっきりと口にしたことはない。また、人に言われたこともなかった。
それから……実際に言葉にすると結構な衝撃があるのだと知った。
「やめてよね……。手を貸す人は貸したいから貸すの。助けてくれる人は助けたいと思うから助けるの。その手を自分から遠ざけて、そのうえ何? 人の負担になるのが嫌だから辞める? 冗談言わないでよ。そんなことしたらうちのクラス全員が嘆くわよ? そんなこと、クラス委員として認められるわけないじゃない」
言われていることは全部筋が通っている。
ただ、クラス委員がそこまで責任を負わなくてもいいのに、とは思うけど……。
私はいつだって自分勝手なんだ。
人に迷惑をかけるのが嫌だと言いながら、その人たちがいつかいなくなってしまうことを恐れている。ならば、最初からその手を取らなければ悲しい思いをしなくて済む。
きっと、心の奥底でそう考えているに違いない。
一度手に入れてしまったら、それを手放すことができなくなる……。もっと苦しくなる……。
それは蒼兄のように――少し距離ができるだけでも不安に駆られる。
「みんな、出てきていいわよっ」
桃華さんが後ろへ向かって声を発した。
「翠葉、ごめんなさいね」
桃華さんが顔の前で両手を合わせながらきれいに笑った。
私たちがいるベンチの後ろには、かなりの高さがあるツツジが植わっている。その影から出てきたのはクラスメイトたちだった。
憑き物が取れたかのようにはしゃぐクラスメイはところどころで携帯の電源を入れたり、メールチェックをしている人の姿も目立つ。
大半の人は午後から部活動が待っているのだろう。クラスの半分はホームルームが終わった途端に教室から出ていった。
テスト前一週間から部活動停止になっていたため、みんなは体を動かしたくて仕方なかったのかもしれない。
飛鳥ちゃんはテストの出来を少々憂いつつも、海斗くんと佐野くんと先陣を切って教室を出ていった。
「飛鳥は元気ね」
桃華さんは言いながらかばんに荷物を詰める。
「みんなは普段運動しているのが普通だから……。ここ一週間は軟禁状態だったのかも」
そんなふうに答えると、
「まるで牢屋に入れられた猿ね」
桃華さんは少し呆れたように口にした。
「桃華さん、このあと時間もらえる?」
「……えぇ」
「話す、からね」
少し声が硬くなる。と、
「そこまで力まれるとこっちもかまえちゃうわね」
肩を竦めて笑われる。
「ごめんね。やっぱり少し勇気がいることなの。だから、どこかに力を入れてないと挫けちゃいそうで……」
無理矢理笑顔を作って答えると、
「翠葉、今日はお弁当持ってきてないわよね?」
桃華さんにしては珍しく話が飛躍した。
「うん……?」
不思議に思っていると、
「じゃ、桜香苑に移動しましょうか」
「え?」
「サンドイッチ作ってきたの」
言われて、そのまま手を引かれた。
外は風邪もなければお日様も出ていない。夕方には雨が降ってくるんじゃないだろうか、と思わずにはいられない雲が遠くに見えた。
「降ってこないといいけど」
桃華さんも空を見上げる。
たどり着いたのはいつものベンチ。
「内緒話の前に食べましょう」
昨夜苺タルトを食べ、今朝は柔らかく煮込まれたポトフを食べた。だから多少の固形は食べられると思うけど……。
不安を抱えながら覗き込むと、桃華さんが作ってきたサンドイッチはクリームサンドだった。
卵や野菜が挟まっているサンドイッチじゃなくて、甘さ控え目のホイップクリームと果物が挟まっている。
保冷機能のついたバッグに保冷剤と一緒に入れてあったので、少し冷たくて、それが余計に食べやすくしてくれていた。
「美味しい……」
「蒼樹さんからあまり食べてないって聞いてたから。テスト中は少しヒヤヒヤしてたのよ?」
……あ、れ?
「いつから蒼兄と連絡を取り合ってるの?」
「そうね……。いつだったかしら?」
考えてはいるようだけれど、具体的な日にちが出てくることはなかった。
サンドイッチを食べ終わると、
「さて、内緒話を聞かせてもらおうかしら」
私が芝生にペタンと座るものだから、最近は桃華さんも芝生に座るようになった。
上着のボレロを脱ぎ、左腕の長袖を腕まくりする。
「これ……なんだと思う?」
バングルを見せて訊く。
「触っても大丈夫?」
「平気」
桃華さんは中指と人差し指でなぞるようにバングルに触れた。
「一見して普通のバングルに見えるけど……。でも、それなら学校に付けてくる必要はないわね」
と、ひとつの答えを出す。
「うん、そうなの。普通のバングルに見えるけど、バイタルチェックをする装置」
「……なんでまたそんなものを?」
びっくりしつつ、「これが?」という顔をして、再度バングルに視線を戻した。
「秋斗さんが開発してくれた特注品。蒼兄と私へ贈られた誕生日プレゼントなの」
「誕生日近いの?」
「来月の一日で十七歳。蒼兄は来週の三十日」
「あら、お祝いしなくちゃ」
「ありがとう」
誕生日の話で少しだけ場が和む。そんな空気のところに、こんな話はしたくないんだけどな……。
「これ付けることになったきっかけは……」
私が具合が悪いことを人に言わないから――その一言が出てこない。
「私が……」
先を続けられない。話すって決めたのに――。
「私が――」
「具合が悪いことを人に言わないから」
口にできなかった言葉を桃華さんに言われて息を呑む。
「そんなの、少し考えればわかることよ。だから、毎日のように蒼樹さんや栞さんが張り付いているんでしょ?」
見ていたら――見ているだけでそんなことまでわかってしまうのだろうか。じっと桃華さんを見ていると、
「でも、なんで人に言えないのか……。それは知りたいわ」
黒いきれいな髪の毛を耳にかけ直してこちらを向く。
私は一度深呼吸をしてから口を開いた。
「具合が悪くて誰かに助けてもらうとき、ものすごく申し訳なくて自分が情けなくなるの。痛いのもつらいのも我慢できる。でも、人の負担になるのはすごくつらい。そういうことが何度か続くと必ず思うことがある。……自分がいなくなればいいのに、消えてしまえばいいのにって思う。そういう気持ちが溜まっていくと、具合が悪いこと、誰にも言えなくなっちゃうの。それで倒れてまた自己嫌悪。私の場合、時と場合によりけりだけれど処置が遅れると心肺停止する可能性があるでしょう? だから、私がそれをするのはすごく無謀なことで、自殺未遂となんらかわらないって――湊先生に言われるまで気づかなくて……」
言葉に詰まるとその先を続けることができなかった。
何度説明しても慣れない。自身のことと認めたくない。
そう思っていると、
「……要は無自覚ってことよね?」
コクリと頷く。
「それじゃ、その装置が翠葉の代弁をしてくれるのね」
桃華さんはまるで眩しい光でも見るようにバングルを見つめる。
「最近は蒼樹さんがベッタリ張り付いてないのにも納得」
と、桃華さんはクスクスと笑いだした。その反応すら私が予想していたものとは違って戸惑う。
何をどう……と予想していたわけではない。でも、話したあとにこんな笑顔を見られるとは思っていなかった。
「なぁに? 私の顔に何かついてる?」
「……どうして、どうしてそんなに普通に聞いてくれるの?」
「……とくに問題がないからよ。だって、翠葉は死にたくてその行動を取ってるわけじゃないのでしょう? あくまでも無自覚……。時に無自覚ほど怖いものはないけれど、でも、今はその装置がついてる。ならば最悪の状況を避ける道は確保されている。それなら何を怖がることもないわ」
強く、真っ直ぐな目を向けられた。
「学校って結構楽しいところよ? そんなに簡単になんでもかんでも諦めようとしないで? 私たちが寂しくなるじゃない」
少し拗ねたような、そんな表情。
「本当に……この学校は楽しいことばかりで、桃華さんやクラスメイトに出会えたことも幸せだと思ってる。でもね、やっぱり人の負担にはなりたくないと思うの」
最後まで桃華さんの顔を見て話すことはできなかった。
「だから?」
だから……? その先も言うの……?
「……だから、今が楽しければあとは欲張っちゃいけないと思うの……」
「だから何? 高校を辞める覚悟もしてるっていうの?」
自分でもはっきりと口にしたことはない。また、人に言われたこともなかった。
それから……実際に言葉にすると結構な衝撃があるのだと知った。
「やめてよね……。手を貸す人は貸したいから貸すの。助けてくれる人は助けたいと思うから助けるの。その手を自分から遠ざけて、そのうえ何? 人の負担になるのが嫌だから辞める? 冗談言わないでよ。そんなことしたらうちのクラス全員が嘆くわよ? そんなこと、クラス委員として認められるわけないじゃない」
言われていることは全部筋が通っている。
ただ、クラス委員がそこまで責任を負わなくてもいいのに、とは思うけど……。
私はいつだって自分勝手なんだ。
人に迷惑をかけるのが嫌だと言いながら、その人たちがいつかいなくなってしまうことを恐れている。ならば、最初からその手を取らなければ悲しい思いをしなくて済む。
きっと、心の奥底でそう考えているに違いない。
一度手に入れてしまったら、それを手放すことができなくなる……。もっと苦しくなる……。
それは蒼兄のように――少し距離ができるだけでも不安に駆られる。
「みんな、出てきていいわよっ」
桃華さんが後ろへ向かって声を発した。
「翠葉、ごめんなさいね」
桃華さんが顔の前で両手を合わせながらきれいに笑った。
私たちがいるベンチの後ろには、かなりの高さがあるツツジが植わっている。その影から出てきたのはクラスメイトたちだった。