光のもとでⅠ

12

 私は秋斗さんと話しながら眠ってしまったようで、翌朝、栞さんに起こされるまでは痛みで起きることもなかった。
 まだ五月後半。入梅するとしても来週か再来週のはず。それとも、今年は少し早いのだろうか……。
 何にせよ、憂鬱になる不調が始まる。
 もともと天候の変化には弱い。けれども、この季節は気圧の変化も大きくとくに堪える。
 痛み止めを常用するようになれば血圧も体温も下がりやすくなる。痛み軽減のために副交感神経を優位にする薬を飲み始めればぼーっとすることが多くなる。
 また今年も始まる、悪夢のような二ヶ月が――。

 心なし、外の天気を気にしつつダイニングテーブルに着く。
「大丈夫?」
「大丈夫です。毎年のことですから……」
「……毎年のことだから慣れるというものでもないでしょう?」
 どこか困った顔で見られた。
 今日の朝食は栞さん特製野菜スープ。
 お昼ご飯も食べられそうにはなく、スープを作ってもらっている。
 お弁当の時間はどうしようかな……。
 クラスの人は、私の体のことは詳しくなくとも知ってはいる。今さら隠す必要がないくらいには打ち解けたとも思う。
 でも、だからといって見られたいものでもない。
 サーモスステンレスを横目にため息をつく。
 どこか重たい気分は学校に着いても変わらなかった。
 教室のドアを開けると、今日も桃華さんが先に来ていた。そして、今日も蒼兄が昇降口までついてきた。
「桃華さん、おはよう」
「おはよう。……今日、すごく顔色悪いわよ?」
「うん……ちょっとね。この季節は苦手なの」
「季節の変わり目?」
「……というよりは梅雨の季節かな」
「……結構長い期間ね」
「うん。だからなんとなく気分も重いの」
「……顔色見れば気づける自信はあるけど……。でも、言えるなら言ってね?」
 少し遠慮気味に言われる。
「うん」
 返事をすると、問題集も開かずに机に突っ伏す。
「ちょっと……本当に大丈夫なのっ?」
「栞さんの許可が下りるくらいには大丈夫だよ」
 ただ、薬の分量が増えて体がだるかった。
 それは今さらどうこうできることではないし、この先二ヶ月は続くのだから慣れなくちゃいけない。
 目を閉じてはいるけれど寝ているわけではなく、ただひたすら自分の感覚を研ぎ澄ませていた。
 時間の経過と共に、徐々に周りが賑やかになってくる。
 あぁ、この感覚はあれに似ている。朝、起きるときに五感が働きだす感覚に……。
「翠葉?」
 飛鳥ちゃんの声に目を開けた。
「ん?」
「大丈夫?」
「うん。無理して来ているわけじゃないから、大丈夫だよ」
 ホームルームが始まる前に川岸先生が側まで来た。
「湊先生が昼休みに保健室に来るように言ってたぞ」
「はい、わかりました」
 診察かな、と思いつつ、保健室でご飯を食べられることに少しほっとした。
 授業は板書をノートに書くのが精一杯。全然頭に入ってくる気配がない。
 これは復習しないとダメそうだ。
 古典と英語の授業では指名されなかったのが救い。数学と化学はぼーっとした頭でもなんとか乗り切れた。
 昼休みになるとランチバッグを持って席を立つ。
「保健室に行ってくるね」
 飛鳥ちゃんと桃華さんに断って席を立つと、海斗くんが一緒に立ち上がった。
「俺、ついていくよ」
「そこまで無理してるわけじゃないから大丈夫だよ」
「ん、でも気になるから。ほら、行くよ」
 と、先に歩き始める。
「あれは私たちの名代よ」
 桃華さんに言われて、
「翠葉、早くーっ」
 と、教室の前のドアから海斗くんに催促された。

 保健室の前まで来ると、
「じゃぁ、あとでな」
 と、海斗くんは踵を返して廊下を戻り始めた。
 コンコン――。
「失礼します」
 ドアを開けるとデスクの前に座った湊先生がこちらを向いた。
 一通りの診察を行って処方薬を渡される。
「例年よりも少し早いけど、今日から薬の分量を増やそう。いつも以上に血圧が下がるから気をつけるように。……約二ヶ月か――つらいと思うけどのらりくらりとかわすわよ」
「はい」
 すでに血圧は七十半ばまで落ちていた。
「憂鬱って顔ね」
「……湊先生、お弁当が食べられない日、ここで食べてもいいですか?」
 湊先生はタイピングの手を止め、
「いいわよ。でも、あの小姑たちが寂しがるんじゃないの?」
 と、痛いところをつかれる。
「事情を話せば大丈夫かな、と……」
「……毎年この季節は点滴を打ちながら乗り切ってるのか――」
 カルテを見ながら言われる。
「食べられないときはここで放課後に点滴打ってあげるから、経口摂取ができなくなる前には来るのよ?」
「はい」
 診察が終わると保健室中央にある白いテーブルへと移る。
 しかし、先生の手にはカップしかない。
「先生、お昼ご飯は?」
「じきに届くわ」
 言った直後、
「湊先生いるかい?」
 と、中庭から人が現れた。
「いるわよ。いつもありがとう」
 言うと、先生はその人からお弁当らしきものを受け取った。
「……なんですか、今の」
「病院に出入りしている弁当業者。あっちで仕事してたときからの顔見知りでね。こっちに移ってからもお願いしてるの」
「……秋斗さんもこういうの利用すればいいのに」
「は?」
「何度か秋斗さんとお昼を一緒に食べたんですけど、コンビニのサラダとパンふたつでびっくりしちゃいました」
「秋斗らしいわね。っていうか、サラダにパンふたつ食べてるならまだいいほうよ。あれ、意外と食には無頓着だから」
 言いながら蓋を開けるとハンバーグが入っていた。ほかにはアスパラのお浸しや卵焼き、野菜の煮物。デザートには果物までついている。
 見るからに栄養のバランスが良さそうだ。
「……湊先生、秋斗さんってどんな人ですか?」
「……どんなって、見たまんまよ? 翠葉にはどう見えるの?」
 どう――。
 まさか訊き返されるとは思っていなくて、すぐに答えることができない。
「……優しい空気を纏ってる人――。油断して甘えてしまうと、カプッて噛まれそうな……」
「あはははははっ! 秋斗、どんだけ危険人物なのよっ!」
 こんなに豪快に笑われるとは思いもしなかった。
「……でも、一緒にいて疲れない人だな、と」
「そう。……じゃ、司は?」
 司先輩……?
「第一印象は格好いいけど意地悪な人、です」
「くっ、それはそれでおかしい。で、今は?」
「今は……そうだなぁ。やっぱり格好いいけど意地悪な人、です。優しいのも知ってるんですけど、第一印象が強すぎて……」
「うちの愚弟、いったい何やらかしたのよ」
「え? 思い切りいじめられました。私、泣きそうでしたし」
「まったく、しょうがない男どもね」
 そんなふうに言うけれど、かわいくて仕方ない弟と従弟、という感じに聞こえる。
 司先輩は湊先生のようには笑わない。だから、どこか新鮮なものを見る気分で湊先生を見ていた。
 なんとかお昼休み中にサーモスステンレスの中身を空にすることができ、ピルケースから薬を取り出し飲み込むも、
「午後の授業寝ちゃったらどうしましょう……」
 テーブルに突っ伏していると、佐野くんが迎えに来てくれた。
「御園生戻れる?」
「うん、大丈夫」
 突っ伏したまま答えると、
「湊先生、これ、本当に大丈夫なんですか?」
「かろうじて……ってところかしらね。ま、くれぐれもよろしく頼むわ。ほら、さっさと教室に戻んなさい」
 と、保健室を追い出された。
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