光のもとでⅠ

14

 家に帰ると栞さんが出迎えてくれた。
 今年に入ってから我が家の日常となった一コマ。
「翠葉ちゃん、蒼くんおかえりなさい! お茶淹れるから、手洗いうがいをして制服着替えてらっしゃい」
「おかえり」の言葉とうがい手洗いはセットになっている。
 玄関から私は自室へ直行。蒼兄は洗面所へと向かう。
 うがい手洗いを終えてルームウェアに着替えると、なんだか体中の力が抜けた。緊張が解けたみたいに。
 リビングに出ると、キッチンからハーブティーの香りがした。
 カモミールとミントかな……?
 りんごみたいな甘酸っぱい香りと清涼感ある香りがする。
 リビング窓際にある籐のテーブルセットに座っていると、栞さんがお盆に乗せてマグカップを持ってきてくれた。
「カモミールとミントですか?」
「半分正解! リンデンとローズも入ってるわよ」
 この会話もここ最近の日課となっている。けれども、ブレンドされているハーブティーはなかなか当てられない。
「学校はどうだった?」
「んー……席の周りの人たちとは友達になれました」
「どんな子たち?」
「三人ともすごく明るくて元気。一人はテニス部の男の子で答辞を読んだ人。隣の子もテニス部で表情がくるくる変わる面白い子。後ろの人はすごくきれいでしっかりした人。学年を牛耳るのが野望だって言ってました。でも、すでに"女帝"って言われているくらいだから、野望は果たし済みのような気がします」
 思い出しながら話すと、栞さんがクスクスと笑っていた。
「私の代にも"女帝"って呼ばれてる人がいたわ。私の親友だったんだけどね」
 と、懐かしそうに頬を緩める。
「どの代にも"女帝"っているのかしらね?」
 栞さんは笑いながら、テーブルの下に入っている籐の籠を取り出す。
 その中には栞さんのお仕事セットが入っている。
 血圧計と体温計と聴診器、それから記録帳。
 朝起きたときと夕方に毎日計っているのだ。
 これも栞さんが来るようになってからの日課。
「んー……相変わらず低い。八十の六十二。上下の差がないから椅子から立ち上がるときは注意してね?」
 言いながら記録帳に数字を書き込む。
 耳に当てた体温計がピピッと鳴り、栞さんに渡す。
「栞さん、ご飯までどのくらいですか?」
「あと一時間くらいだけど?」
「少し寝てきてもいいですか? すごく眠くて……」
「三十七度二分か……。疲れたのね、少し休んでいらっしゃい。一時間したら起こすわ」
「お願いします」
 私は自室に戻ると、ベッドへ直行してお布団に潜り込んだ。
 学校に居たときは気が張っていたのか何も感じなかったのに、家に帰ってきた途端に倦怠感が出てきた。
 ご飯食べたらお風呂に入って問題集をやらなくちゃ……。
 最後に頭に浮かんだのはそのことだけ。あとはお布団に沈み込むように眠りに落ちた。

「翠葉、入るよ?」
 ドアを叩く音と蒼兄の声が聞こえた気がする。けど、なかなか目が開けられない。
「翠葉、夕飯だって。……起きられるか?」
「うん……大丈夫」
「栞さんがご飯の前に熱測ってほしいって。はい、体温計」
「……ありがとう」
 目の前に差し出された体温計を受け取り、耳に当てるとすぐにピピッ、と音が鳴り、蒼兄に取り上げられる。
「三十七度五分。さっきよりも少し上がったな。大丈夫か?」
「うん、平気。起きなくちゃ……。ご飯冷めちゃうね」
 重だるい体をよいしょ、と起こす。
 ルームウェアの上にカーディガンを羽織ってダイニングに向かった。
「熱、三十七度五分でした」
 蒼兄が記録帳に記しながら報告する。
「そう、ちょっといいかしら?」
 と、栞さんの細い指先が首元に伸びてくる。
「んー、リンパ腺が少し腫れてるかな。喉は痛くない?」
「喉は痛くないけど、体がだるくて筋肉痛みたいな感じ。寝ていても痛だるかったです」
「慢性疲労症の症状ね……。今日は軽い鎮痛剤とビタミン剤を飲んで早めに休みなさい」
 言うと、お薬一式が入っている戸棚を開け、食後の薬の用意をしてくれた。
 看護師の栞さんは、いつでも私の体調にあわせて薬をチョイスしてくれる。
 薬の内容はもちろん主治医の指示のもとに、あらかじめ何パターンかに組み合わせてあるものだ。
 栞さんが来てくれるようになってから、格段に体のコンディションは良くなったと思うのに、二日続けて一日中動くとこの様だ。なんだかちょっと情けない。
 今日の夕飯はビーフシチューとサラダ、それに焼きたてのパン。
 焼きたてのパンが香ばしくて美味しい。生地に混ぜてあるバジルが効いていて食欲をそそる。けれど、実際に食べ始めると十口も食べられなかった。
 疲れるとご飯が食べられなくなるのは、私の体の一種の特徴。
 それに気づくと、すぐにキッチンへ戻り野菜か何かを刻みだす栞さん。
 トントントントン――しばらく小気味いい音が続いていると思ったら、電子レンジのチン、という音が聞こえた。そして、最後はガー、とミキサーの音。
「栞さんがいると至れり尽くせりだな」
 私の向かいに座ってご飯を食べている蒼兄に言われる。
「本当だね……」
 言いながら、私はテーブルに並ぶプレートに視線を落とす。
 食べたいのに、好きなのに、食べられない――。
 お行儀が悪いとはわかっていつつも、椅子の上で足を抱えるようにして座る。
 正直、普通に足を下ろして座っているのもつらいのだ。
 目の前にある湯気の上がるシチューをじっと見つめる。
「見てるだけじゃシチューは胃の中に入らないよ」
 当たり前のことを蒼兄に言われて少しむくれる。
「だって……食べたいのに喉を通らないんだもの……」
 栞さんの作るビーフシチューは私の大好きなメニューのひとつ。
 赤ワインを少し淹れて煮込むとお肉がとても柔らかくなって、味に深みがでるのだとか……。まろやかさを加えるのにバター、隠し味におろしにんにく。
 考えれば考えるほどに、美味しいとわかっているものを食べられないことがつらい。
「ビーフシチューもパンも、明日の朝にだって食べられるわ」
 と、横からスープカップを差し出された。
「これ飲んだらお風呂に入っちゃいなさい」
 スープカップの中身の正体は温野菜とあたたかい牛乳をミキサーで混ぜたもの。
 コンソメ味のペースト状スープだった。
 ビーフシチューよりも味が薄くて飲みやすい。
 カップからそのまま飲めるようなサラサラしたスープじゃなくて、スプーンで掬って一口ずつ飲むような、どろっとしたスープ。
 冷たいスープではなくあたたかいスープなのは、私の胃を考えてくれてのことだろう。
 ここまでくると、看護師兼家政婦さんというよりは、お母さんのようだ。
「……栞さん、いつもありがとうございます」
「どういたしまして。……でも、これが私の仕事なのよ。だから気にしなくていいわ」


 * * *


 翌朝、目覚まし時計が鳴ると同時に栞さんが部屋に入ってきた。
「おはよう。気分はどう?」
 言いながら、両手に抱えてきた籐の籠から血圧計を取り出し測り始める。
 私も、籠に手を伸ばし体温計を手に取る。
「昨日よりは調子いいかもしれません。筋肉痛は取れました」
「血圧は八十二の五十。まぁまぁね」
 ノートに記帳しながら体温を訊かれる。
「…………」
 ディスプレイに表示されている体温を見て、絶句してしまった。
「体温計見せて?」
 私の手にあった体温計を取られ、
「三十六度八分。高温期ではないし……。いつもより大分高いわね」
 そう言うと昨日と同じように首元を触られる。
「リンパの腫れもまだ引いてないか……」
 私の平熱は三十六度あるかないかくらいだ。高温期になると三十六度八分くらいになる。低温期なのに、三十七度弱というのは少し高い。
「休みなさいとは言わないけれど……無理は禁物よ?」
 いつも優しい栞さんだけれど、私の具合が思わしくないときは容赦なく厳しい。
「具合が悪くなったらすぐに保健室に行くこと。それが守れるなら行ってよし!」
「ありがとうございますっ!」
「さ、支度始めないと! 遅刻しちゃうわよっ」
「はい!」
 昨日は結局お風呂に入ってすぐに寝てしまったので、課題は手付かず……。
 今日から授業も始まるし、休み時間も利用して進めていかないと。
 そんなことを思いながら用意をする。
 リビングに出ると兄がいつもの指定席、窓側の籐椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。
「蒼兄、おはよう」
 声をかけるといつものように新聞から目を上げて挨拶を返してくれる。
「おはよう、翠葉。今日から授業だろ? 大丈夫なのか?」
「うん、昨日ほどだるくはないから大丈夫。……それに、授業始めから休んでいられないよ」
「それはそうだけど……。具合悪くなったらすぐ保健室に行けよ? それと、俺にメールも忘れないこと」
「はい」
 キッチンの方から栞さんの声がかかった。
「ご飯食べられそう?」
「食べてみます」
「食べられるだけでいいから食べてね」
 と、いつものお雑炊を出してくれる。
 テーブルには昨日ビーフシチューが入っていた深皿と同じ器が用意されていた。
 卵と長ネギのお雑炊。あっさり鶏ガラスープの味付け。
 栞さんはとても料理が上手。
「これ、今日のお弁当なんだけど、一応ふたつ」
 テーブルの上に置かれたのは普通のお弁当箱と、サーモスステンレスのトールサイズカップだった。
「こっちは普通のお弁当。食べられるならこっちを食べて? 無理そうだったらこっちのカップ。昨日と同じスープが入っているから」
 本当に至れり尽くせりだ。
「手間をかけてしまってすみません」
 頭を下げると、頭を上げたときに軽く額をペシっと叩かれた。
「謝るくらいなら食べる! そして元気になる! ねっ?」
「はい」
 まだ出逢って三ヶ月も経たないけれど、この声に何度元気付けられたか知れない。
 本当に心から感謝。
 せっかくのお雑炊はやっぱり半分以上残してしまった。それを気にする蒼兄の視線を避けつつ、いつもとは逆で、蒼兄より先に玄関へ行く。
 靴を履いて待っていると、後ろからため息が聞こえてきた。
 振り向くと、用意を済ませリビングから出てきた蒼兄が立っていた。
「そんなに先に出ようとしなくても、置いていったりしないよ」
 ……どうして思っていることを見透かされちゃうのかな。
 なんとなく、「今日は休め」と言われる気がして玄関へと急いだのだ。
 上目遣いに蒼兄を見ると、私の脇を通り抜け様にポンと軽く頭を叩かれた。
「車出してくるからもう少し待ってな」
 そう言うと玄関を出ていった。
「蒼くんったら、本当によくできたお兄さんよね?」
 栞さんがキッチンから出てきてクスクス笑う。
 蒼兄を褒められるととても嬉しいと思う。
「あらあら、自慢の兄ですって顔しちゃって。翠葉ちゃんに好きな人ができるのは当分先かしら?」
 なんて、笑いながら送り出してくれた。
 最後にしっかり釘を刺すことも忘れずに――。
「無理はしないこと。具合が悪くなったらすぐに保健室。いいわね?」
「はい。いってきます」
「いってらっしゃい」
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