光のもとでⅠ
16
病院に着くと、次々と検査に回された。
一番時間がかかったのは運動負荷テストとODテスト。これをやるだけで低血圧の発作を起こしかけるのであまりやりたい検査ではない。後日、別枠で胃カメラをすることになっているけれど、それが一番の難関だ。
何にせよ、検査は疲れる……。
一通り終わると検査結果待ち。湊先生はそれらを受け取るため、私から一度離れなくてはいけなかった。
少し気にしつつ、
「あと五分もすれば司が来るから人がいるところにいなさい」
そう言って、足早に去っていった。
病院はあまり好きじゃない。でも、病院内に一ヶ所だけ好きな場所がある。それは中庭。
人もいるし監視カメラもついている。きっと大丈夫だろう。
そんな軽い気持ちで中庭に出ると、木の周りに敷き詰められている芝生に座った。
木陰になっていて芝生が冷たくて気持ちいい。
空を眺める雲を見ていると、
「お久しぶり、御園生翠葉さん」
声の方を向くと、白いワンピースを着た人が立っていた。
雅さん――。
顔を見て確信したのではなく、声と話方で人物を特定する。
初めて会ったときと変わらないトゲのある声だった。
今日も髪の毛をきれいにカールさせて、品のいいサングラスをかけている。
「あなた、なかなかひとりになってくださらないんだもの。私、困っちゃったわ」
クスリ、と笑うと慣れた手つきでサングラスを外した。
声に付加されたのは薄い笑み。
「あなた、自分が秋斗さんにつりあうとでも思っているのかしら?」
上から見られているからだろうか。異様なまでの威圧感を強いられる。
「それは――」
「まさか、思っていないわよね? 秋斗さんはゆくゆくは藤宮を統べる方だもの。いずれ跡取りだって必要になる。秋斗さんのお相手は健康な身体で子どもを産める方でないと……。あなたにはそれができるのかしら?」
跡取り、子ども――健康な身体。
「何も私は意地悪で申し上げているのはないのよ? のちに知るより、今教えてさしあげたほうが親切でしょう?」
視線はねっとりとまとわりつき、抑揚のある声は全身に絡みついて私の動きを封じる。ふとすれば、呼吸すらが止まってしまいそうだった。
雅さんは目を細め笑みを深めると、
「あなた、バイタルをモニタリングされてるんですってね? そのうえGPSまでつけられているのだから、相当お身体が弱いのではなくて?」
突如向けられる視線が鋭くなる。
「かわいそうだけれど、その身体で秋斗さんの隣には並ぶのはどうかと思うわ。身の程をわきまえるのね」
一方的に話されるだけで、何を言い返すこともできない。言い返せると思えるものが何ひとつ見つからない。
「秋斗さんのことは諦めなさい。一緒にいたらつらい思いするのはあなたよ。これは今私が話さずとも必ず誰かに言われることだわ。よく考えるのね」
言うと、背を向けて出口へと歩きだした。
「あぁ、そう――」
肩越しに顔だけで振り返ると、
「くれぐれもお身体お大事に」
あの日、ホテルで会ったときと同じ。今日もハイヒールをきれいに履きこなしていた。
時間にしたら数分もなかったと思う。それでも、指先が冷たくなっているのがわかった。
緊張からの冷たさ……。
中庭を吹き抜ける風がいつもより冷たい気すらする。
「身の程をわきまえる、か――」
秋斗さんが特別な立場にいることはわかっていた。けど、それなら私が恋愛できる人とはどんな人なのだろう……。そもそも、自分の身体にも責任を持てない私は、誰かと恋愛をすることや結婚なんて望んではいけないのかもしれない。
結婚が、相手の人生と自分の人生を重ねて一緒に持つ、ということならば、私には無理。私は自分の命ですらこんなにも手に余る状態で、そのうえ子どもだなんて――とてもじゃないけど考える余裕はない。
「翠」
顔を上げると司先輩が立っていた。
「姉さんが探してた」
「あ、ごめんなさい……」
慌てて潤んだ目を手の甲で拭う。
「具合悪い?」
「違う」
「何かあった?」
「何もない」
「そんな顔で言われても真実味がないんだけど」
「っ……検査結果、出たのかな。私、戻らなくちゃ……」
「翠――今、正面玄関から黒塗りの車が出ていった。運転手が見知った人間だったけど……。雅さんと会ったんじゃないの?」
"雅さん"という言葉にすら震えてしまう。
「何を言われた?」
鋭い目に見据えられる。
「何も……」
震えながら答える自分は往生際が悪いと思う。それでも、言われたことを話すのは難しかった。
「無駄な努力はやめたら? 自分が嘘や隠しごとをできる人間だとでも思ってるわけ?」
言われて、きゅ、と唇を引き結ぶ。直後、口を小さく開け、大きく息を吸い込んだ。
「……身体の弱い人間は秋斗さんに相応しくないって言われただけ。でも、それは間違ってないと思う。秋斗さんにはもっとすてきな人が似合う」
一息に話し、吸いすぎた息を吐き出す。
「……そんな顔をしている理由は理解した」
話したはいいけれど、顔が上げられなかった。
「とりあえず、姉さんのもとに戻ろう」
立ち上がるのに手を貸してくれ、さらには歩きだすと背に手を添えられた。
その手がひどくあたたかく感じて、引っ込んだ涙がまた出てきてしまいそうだった。
カンファレンスルームに入ると、
「中庭にいた」
と、司先輩が報告する。
「で? なんでそんな顔してんのよ」
「あの、目にゴミが入っちゃって……」
嘘はばれてしまうだろうか……。
恐る恐る湊先生をうかがい見ると、
「まぁ、そういうことにしておくわ。で、検査の結果だけど――」
と、検査結果を話し始める。
「炎症値が少し上がっていたけど問題視する必要はない。でも、リンパ腺も少し腫れてるから無理はしないこと。それから不整脈は相変らず変化なし。今夜から薬の分量増やすの忘れないようにしなさい」
……体調がつらくなるのはここからが本番だ。そう思えば恋愛なんかしてる場合じゃないのかもしれない。
心から一気にあたたかさが引いていくのがわかった。
「先生、あと少しだけ……あと三日だけ薬を飲み始めるの遅らせちゃだめですか? 日曜日の夜には飲み始めるから、だからあと三日だけ――」
日曜日のデートまで、それまでは待って欲しい。返事をするって約束をした日だから……。
ついさっき、断るとちゃんと決めた。それなら、その日までは楽しく過ごしたい。
薬を飲み始めたら、しばらくは学校へ行くことすら危うくなる。だから、その日までは許してほしい――。
「それはワガママ?」
「はい。私の自己都合です」
「許可できないって言ったら?」
「……ごめんなさい。それでも飲みません」
私の言葉を聞いた湊先生は、回転椅子ごとこちらを向く。
「医者としての答えは"No"よ。でも、私情を挟むなら、翠葉が初めて口にしたワガママくらいは聞いてやりたい」
え……?
顔を上げると、にっ、と口端を上げる湊先生がいた。
「今まで薬を遅らせていたのは単に高校生活を乗り切るための対応策であって、翠葉のワガママとは違うでしょ? けど、今回はそういうのとは関係なしにどうしても、ってお願いなんじゃないの?」
コクリと頷く。
「だったら、あと三日くらい待つわよ。ただし、そのあとは覚悟なさいね」
「……はい」
「薬、今日はこっちから出すから薬剤部でもらって帰りなさい」
「湊先生、ありがとうございます」
「学校までは司と一緒に帰ってもらえる? 私は少し片付け物してから帰るから。学校からは秋斗が送ってくれるわ」
「わかりました」
通常は院外薬局で薬を受け取るけれど、今日は院内の薬剤部から処方される。
待合室で薬の順番を待っているとき、何をすることもなかったからか、頭の中で思考がぐるぐると回り出す。
雅さんと会ってから、少しだけ周囲に変化があった。私には常に誰かがついている。それは取り立てて珍しいわけでも違和感があるわけでもない。むしろ、バングルを付けるまではそれが普通だった。
最近は、秋斗さんと一緒にいることも自然なことと勘違いし始めていた。でも、それは違う。秋斗さんと一緒にいることは普通なことではないし、そもそもバイタルをモニタリングされていること自体が"普通"ではなかった。
ショックはショックだったけど、雅さんの言葉たちは私が目を覚ますのにはちょうどいい刺激だったと思える。
秋斗さんに私はつりあわない。秋斗さんのようなすてきな人にはもっと相応しい人が現れるはず……。
「翠、何を考えている?」
待合室のザワザワとした音に紛れて聞こえてきたのは、耳に心地よい低く落ち着いた声音。
「秋斗さんに返事をちゃんとしないとって思ってた」
「……まだ返事してなかったんだ」
どうしてか先輩は驚いているふうだった。
「まだしてないの。模試が終わるまで待ってほしいってお願いしたから。……でも、返事してなくて良かった。ちょっと――すごく、選択を間違えるところだった」
居心地が良くて、このまま今の時間が続けばいいと思っていた。けど、やっぱりそれは正解のルートじゃない。
朗元さん、私にはやっぱり手を伸ばす勇気はないみたいです。
手を伸ばせない。手に入れることはできない――。
手を伸ばし続ければ幸せはふくらみ続けるのでしょうか。それは風船のようにいつか割れてしまったりはしないのでしょうか。
私は、手の内にある幸せだけでいい。この幸せが続くなら、それ以上は望まない――。
一番時間がかかったのは運動負荷テストとODテスト。これをやるだけで低血圧の発作を起こしかけるのであまりやりたい検査ではない。後日、別枠で胃カメラをすることになっているけれど、それが一番の難関だ。
何にせよ、検査は疲れる……。
一通り終わると検査結果待ち。湊先生はそれらを受け取るため、私から一度離れなくてはいけなかった。
少し気にしつつ、
「あと五分もすれば司が来るから人がいるところにいなさい」
そう言って、足早に去っていった。
病院はあまり好きじゃない。でも、病院内に一ヶ所だけ好きな場所がある。それは中庭。
人もいるし監視カメラもついている。きっと大丈夫だろう。
そんな軽い気持ちで中庭に出ると、木の周りに敷き詰められている芝生に座った。
木陰になっていて芝生が冷たくて気持ちいい。
空を眺める雲を見ていると、
「お久しぶり、御園生翠葉さん」
声の方を向くと、白いワンピースを着た人が立っていた。
雅さん――。
顔を見て確信したのではなく、声と話方で人物を特定する。
初めて会ったときと変わらないトゲのある声だった。
今日も髪の毛をきれいにカールさせて、品のいいサングラスをかけている。
「あなた、なかなかひとりになってくださらないんだもの。私、困っちゃったわ」
クスリ、と笑うと慣れた手つきでサングラスを外した。
声に付加されたのは薄い笑み。
「あなた、自分が秋斗さんにつりあうとでも思っているのかしら?」
上から見られているからだろうか。異様なまでの威圧感を強いられる。
「それは――」
「まさか、思っていないわよね? 秋斗さんはゆくゆくは藤宮を統べる方だもの。いずれ跡取りだって必要になる。秋斗さんのお相手は健康な身体で子どもを産める方でないと……。あなたにはそれができるのかしら?」
跡取り、子ども――健康な身体。
「何も私は意地悪で申し上げているのはないのよ? のちに知るより、今教えてさしあげたほうが親切でしょう?」
視線はねっとりとまとわりつき、抑揚のある声は全身に絡みついて私の動きを封じる。ふとすれば、呼吸すらが止まってしまいそうだった。
雅さんは目を細め笑みを深めると、
「あなた、バイタルをモニタリングされてるんですってね? そのうえGPSまでつけられているのだから、相当お身体が弱いのではなくて?」
突如向けられる視線が鋭くなる。
「かわいそうだけれど、その身体で秋斗さんの隣には並ぶのはどうかと思うわ。身の程をわきまえるのね」
一方的に話されるだけで、何を言い返すこともできない。言い返せると思えるものが何ひとつ見つからない。
「秋斗さんのことは諦めなさい。一緒にいたらつらい思いするのはあなたよ。これは今私が話さずとも必ず誰かに言われることだわ。よく考えるのね」
言うと、背を向けて出口へと歩きだした。
「あぁ、そう――」
肩越しに顔だけで振り返ると、
「くれぐれもお身体お大事に」
あの日、ホテルで会ったときと同じ。今日もハイヒールをきれいに履きこなしていた。
時間にしたら数分もなかったと思う。それでも、指先が冷たくなっているのがわかった。
緊張からの冷たさ……。
中庭を吹き抜ける風がいつもより冷たい気すらする。
「身の程をわきまえる、か――」
秋斗さんが特別な立場にいることはわかっていた。けど、それなら私が恋愛できる人とはどんな人なのだろう……。そもそも、自分の身体にも責任を持てない私は、誰かと恋愛をすることや結婚なんて望んではいけないのかもしれない。
結婚が、相手の人生と自分の人生を重ねて一緒に持つ、ということならば、私には無理。私は自分の命ですらこんなにも手に余る状態で、そのうえ子どもだなんて――とてもじゃないけど考える余裕はない。
「翠」
顔を上げると司先輩が立っていた。
「姉さんが探してた」
「あ、ごめんなさい……」
慌てて潤んだ目を手の甲で拭う。
「具合悪い?」
「違う」
「何かあった?」
「何もない」
「そんな顔で言われても真実味がないんだけど」
「っ……検査結果、出たのかな。私、戻らなくちゃ……」
「翠――今、正面玄関から黒塗りの車が出ていった。運転手が見知った人間だったけど……。雅さんと会ったんじゃないの?」
"雅さん"という言葉にすら震えてしまう。
「何を言われた?」
鋭い目に見据えられる。
「何も……」
震えながら答える自分は往生際が悪いと思う。それでも、言われたことを話すのは難しかった。
「無駄な努力はやめたら? 自分が嘘や隠しごとをできる人間だとでも思ってるわけ?」
言われて、きゅ、と唇を引き結ぶ。直後、口を小さく開け、大きく息を吸い込んだ。
「……身体の弱い人間は秋斗さんに相応しくないって言われただけ。でも、それは間違ってないと思う。秋斗さんにはもっとすてきな人が似合う」
一息に話し、吸いすぎた息を吐き出す。
「……そんな顔をしている理由は理解した」
話したはいいけれど、顔が上げられなかった。
「とりあえず、姉さんのもとに戻ろう」
立ち上がるのに手を貸してくれ、さらには歩きだすと背に手を添えられた。
その手がひどくあたたかく感じて、引っ込んだ涙がまた出てきてしまいそうだった。
カンファレンスルームに入ると、
「中庭にいた」
と、司先輩が報告する。
「で? なんでそんな顔してんのよ」
「あの、目にゴミが入っちゃって……」
嘘はばれてしまうだろうか……。
恐る恐る湊先生をうかがい見ると、
「まぁ、そういうことにしておくわ。で、検査の結果だけど――」
と、検査結果を話し始める。
「炎症値が少し上がっていたけど問題視する必要はない。でも、リンパ腺も少し腫れてるから無理はしないこと。それから不整脈は相変らず変化なし。今夜から薬の分量増やすの忘れないようにしなさい」
……体調がつらくなるのはここからが本番だ。そう思えば恋愛なんかしてる場合じゃないのかもしれない。
心から一気にあたたかさが引いていくのがわかった。
「先生、あと少しだけ……あと三日だけ薬を飲み始めるの遅らせちゃだめですか? 日曜日の夜には飲み始めるから、だからあと三日だけ――」
日曜日のデートまで、それまでは待って欲しい。返事をするって約束をした日だから……。
ついさっき、断るとちゃんと決めた。それなら、その日までは楽しく過ごしたい。
薬を飲み始めたら、しばらくは学校へ行くことすら危うくなる。だから、その日までは許してほしい――。
「それはワガママ?」
「はい。私の自己都合です」
「許可できないって言ったら?」
「……ごめんなさい。それでも飲みません」
私の言葉を聞いた湊先生は、回転椅子ごとこちらを向く。
「医者としての答えは"No"よ。でも、私情を挟むなら、翠葉が初めて口にしたワガママくらいは聞いてやりたい」
え……?
顔を上げると、にっ、と口端を上げる湊先生がいた。
「今まで薬を遅らせていたのは単に高校生活を乗り切るための対応策であって、翠葉のワガママとは違うでしょ? けど、今回はそういうのとは関係なしにどうしても、ってお願いなんじゃないの?」
コクリと頷く。
「だったら、あと三日くらい待つわよ。ただし、そのあとは覚悟なさいね」
「……はい」
「薬、今日はこっちから出すから薬剤部でもらって帰りなさい」
「湊先生、ありがとうございます」
「学校までは司と一緒に帰ってもらえる? 私は少し片付け物してから帰るから。学校からは秋斗が送ってくれるわ」
「わかりました」
通常は院外薬局で薬を受け取るけれど、今日は院内の薬剤部から処方される。
待合室で薬の順番を待っているとき、何をすることもなかったからか、頭の中で思考がぐるぐると回り出す。
雅さんと会ってから、少しだけ周囲に変化があった。私には常に誰かがついている。それは取り立てて珍しいわけでも違和感があるわけでもない。むしろ、バングルを付けるまではそれが普通だった。
最近は、秋斗さんと一緒にいることも自然なことと勘違いし始めていた。でも、それは違う。秋斗さんと一緒にいることは普通なことではないし、そもそもバイタルをモニタリングされていること自体が"普通"ではなかった。
ショックはショックだったけど、雅さんの言葉たちは私が目を覚ますのにはちょうどいい刺激だったと思える。
秋斗さんに私はつりあわない。秋斗さんのようなすてきな人にはもっと相応しい人が現れるはず……。
「翠、何を考えている?」
待合室のザワザワとした音に紛れて聞こえてきたのは、耳に心地よい低く落ち着いた声音。
「秋斗さんに返事をちゃんとしないとって思ってた」
「……まだ返事してなかったんだ」
どうしてか先輩は驚いているふうだった。
「まだしてないの。模試が終わるまで待ってほしいってお願いしたから。……でも、返事してなくて良かった。ちょっと――すごく、選択を間違えるところだった」
居心地が良くて、このまま今の時間が続けばいいと思っていた。けど、やっぱりそれは正解のルートじゃない。
朗元さん、私にはやっぱり手を伸ばす勇気はないみたいです。
手を伸ばせない。手に入れることはできない――。
手を伸ばし続ければ幸せはふくらみ続けるのでしょうか。それは風船のようにいつか割れてしまったりはしないのでしょうか。
私は、手の内にある幸せだけでいい。この幸せが続くなら、それ以上は望まない――。