光のもとでⅠ
17
病院と学校はバスだと八分。藤宮の私有地と呼ばれる道を歩けば二十分くらい。
今、私はその道を歩いている。
行きは同じ道を湊先生付きの警護班の人に車で送ってもらった。
「このまま図書棟に戻って返事するの?」
「いえ……日曜日に一緒に出かける予定があるので、その日に。警護がつくのもその日までの予定なので……」
「そう」
隣を歩く司先輩は無表情だ。
それはそんなに珍しいことじゃない。でも、いつもとは違う気がするのはどうしてだろう。
無表情に拍車がかかっている感じ。
「先輩、本来なら今は部活動の時間ですよね。すみません……」
「別に謝らなくていいし……。秋兄に頼まれたから聞いたまで。貸しを作っておくほうが色々有利だから」
そんな言葉に笑みがもれる。すると、
「翠にも貸しを作ったことになると思うんだけど?」
「あ……」
「その貸し、明日返して」
「え?」
「明日の放課後、市街に付き合ってほしい」
「市街、ですか?」
「用事があるから付き合ってほしい」
「……今お迎えに来てもらっているっていうことは、司先輩と一緒だったら大丈夫なのかな?」
「その辺は大丈夫」
「なら、お付き合いします」
「じゃ、明日、昇降口で待ち合わせってことで」
「先輩、私も一ヶ所寄りたいところがあるんですけど、いいですか?」
「いいよ。どのあたり?」
「駅向こうの楽器店。ハープのスペア弦が欲しくて」
「了解」
学校まで戻ってくると、
「じゃ、俺は部活に戻るから」
と、図書棟の下で別れた。
図書室の前から秋斗さんに電話をすると、
『送迎できなくてごめんね。図書室のロックは蔵元が解除しに行くから』
「はい」
図書室のドアが開き、
「お久しぶりです、翠葉お嬢様」
にこりと笑みを向けられ、人畜無害とはこういう人のことを言うんじゃないだろうか、と思う。
仕事部屋に通されると、蔵元さんは入り口脇のパソコンカウンターに着き、秋斗さんはデスでカタカタカタカタとひたすらキーボードを叩く。
「今、佳境なんです」
と、蔵元さんが教えてくれた。
「蔵元さん、コーヒー飲まれますか?」
「お気になさらないでください」
「すぐに用意しますから」
簡易キッチンへ向かうと、後ろから秋斗さんに声をかけられた。
「俺、ハーブティーが飲みたいな」
「……ハーブティー、ですか?」
「うん。翠葉ちゃんが淹れたのが飲みたい」
「……蔵元さんはハーブティー飲めますか?」
こちらを振り返った蔵元さんは、
「私はなんでも大丈夫です。というよりは、本当にお気遣いなく……」
三人分のお茶を用意すると、
「あと三十秒だけ待って。そしたら終わるからそっちのテーブルで飲む」
秋斗さんの言葉にカップはダイニングテーブルへ運ぶことにした。ひとつは蔵元さんのもとへ持っていく。と、背後に人の気配を感じた。
私の真後ろには秋斗さんが立っていて、「蔵元、これデータ」とUSBメモリを差し出した。
「お疲れ様です」
言うと、蔵元さんはまだ熱いカップのハーブティーを一気に飲み干した。
「嘘――口の中火傷してませんかっ!?」
「大丈夫です。とても美味しかったです、ご馳走様」
蔵元さんは手早くカップを洗うと、ノートパソコンを抱えて仕事部屋を出ていった。
今、私が手にしているカップは秋斗さんが私のために、と買ってくれたガラスの耐熱カップ。
ガラスにエッチングという技法を施し、描いた部分がすりガラスとなって模様になるもの。
このカップにはアイビーの蔦のような模様が描かれている。その模様はハーブティーの爽やかなグリーンがよく映えた。
「嬉しそうにカップを見るよね?」
「はい。だって、きれいだから……」
「日曜日は僕の買い物にも付き合ってもらっていい?」
「秋斗さんのお買い物ですか?」
「朗元のカップを買いに行こうと思ってるんだ」
そういえば、先日そんなようなことを口にしていた。
「本気だったんですね」
「まぁね。翠葉ちゃんが手に取っているところを見なければ、気にも留めなかったんだけど」
と、笑う。
「秋斗さんはどのカップを買うのかな」
「どうせだから一緒に選ぼうよ」
こんなふうに話せる時間が好きだった。とても大切な時間に思えた。
時がキラキラと光るというのなら、こういうことを言うのだろう、と思えるほどに。
でも、キラキラは魔法だったみたい。魔法はいつか解けてしまう。それが六日なのだ――。
明後日の土曜日は、秋斗さんのお昼ご飯を作りにここへ来ることになっている。
その翌日、お出かけの最後に伝えよう。やっぱり一緒にいることはできません、と。"No"と伝えよう。
好きとか嫌いとか、そういうものではなかったみたい。ただ、その人につりあうかつりあわないか。考えてみれば年だってずいぶんと離れているし、蒼兄よりも年上なのだ。
自分を納得させるのには十分すぎる材料が揃っていた。
でも、こういう話はどうやって切り出すのかな……。
今はまだ考えたくない。あさっての夜までは考えるのをやめよう――。
お茶がまだ残るカップを見つつ、カップの向こう側に見える秋斗さんの手を見る。
土曜日、手をつないでデート、か……。
私はちゃんと言うことができるだろうか。
一緒にいる時間を楽しみたいと思うのに、どうしても思考はそっちへ行ってしまう。
「翠葉ちゃん、どうかした?」
突然の問いかけにびっくりして顔を上げる。
「検査結果が思わしくなかったとか?」
「いえ、数値的には今までととくに変わらずです」
「そう?」
「はい。だから大丈夫ですよ」
今、私にできる精一杯の笑顔。でも、側にいたいと思えば思うほど、顔が歪んでしまいそう。
「秋斗さんはもう少しお仕事ありますよね? 私、仮眠室で休ませていただいてもいいですか?」
立ち上がって仮眠室を見る。と、
「やっぱり具合が良くないんじゃないの?」
と、右手首を取られた。
「具合というか……検査フルコースで少し疲れてしまっただけです」
それは嘘じゃない……。
「ならいいけど……。五時くらいには出られるから。それまで休んでてもらえる?」
「はい」
仮眠室に入って右手首を左手で握りしめる。まだ秋斗さんのぬくもりが残っている気がして。
このあたたかさは知ると癖になる。一度知ってしまうと手放すのがとてもつらい……。
そう思うと、また目に涙が溜まり始めた。
翠葉、さっき病院で泣いたじゃない。もう泣いたらだめ。泣くなら、六日にきちんと返事をして別れたあと。
どちらにせよ、その日の夜から薬を飲み始めるのだ。そうすれば、しばらくは学校へ通えなくなるし、自分の体のことしか考えられなくなる。
その期間に、自分の気持ちにけじめをつけよう。欲張っちゃだめだ――。
ベッドに腰掛け、そのままゴロンと横になる。
ハープが弾きたい……。ピアノが弾きたい……。
感情を逃がす術を手にしたい――。
栞さんの家にハープを持ってきて良かった。でも、どちらかと言うならピアノを弾きたかったかもしれない。
大丈夫、六日に自宅へ帰ればいくらでも弾ける。ただ、起き上がるだけの気力や体力があればの話だけど……。
――人は欲する生き物。
朗元さんの言った言葉が頭によぎる。
――それを諦めたとき、人は人生の半分を捨てたことになる。
でも、それを手に取れない人はどうしたらいいの? 私は何を欲することができるの? 何なら手に入れることができるの?
わからない、わからないよ――。
今、私はその道を歩いている。
行きは同じ道を湊先生付きの警護班の人に車で送ってもらった。
「このまま図書棟に戻って返事するの?」
「いえ……日曜日に一緒に出かける予定があるので、その日に。警護がつくのもその日までの予定なので……」
「そう」
隣を歩く司先輩は無表情だ。
それはそんなに珍しいことじゃない。でも、いつもとは違う気がするのはどうしてだろう。
無表情に拍車がかかっている感じ。
「先輩、本来なら今は部活動の時間ですよね。すみません……」
「別に謝らなくていいし……。秋兄に頼まれたから聞いたまで。貸しを作っておくほうが色々有利だから」
そんな言葉に笑みがもれる。すると、
「翠にも貸しを作ったことになると思うんだけど?」
「あ……」
「その貸し、明日返して」
「え?」
「明日の放課後、市街に付き合ってほしい」
「市街、ですか?」
「用事があるから付き合ってほしい」
「……今お迎えに来てもらっているっていうことは、司先輩と一緒だったら大丈夫なのかな?」
「その辺は大丈夫」
「なら、お付き合いします」
「じゃ、明日、昇降口で待ち合わせってことで」
「先輩、私も一ヶ所寄りたいところがあるんですけど、いいですか?」
「いいよ。どのあたり?」
「駅向こうの楽器店。ハープのスペア弦が欲しくて」
「了解」
学校まで戻ってくると、
「じゃ、俺は部活に戻るから」
と、図書棟の下で別れた。
図書室の前から秋斗さんに電話をすると、
『送迎できなくてごめんね。図書室のロックは蔵元が解除しに行くから』
「はい」
図書室のドアが開き、
「お久しぶりです、翠葉お嬢様」
にこりと笑みを向けられ、人畜無害とはこういう人のことを言うんじゃないだろうか、と思う。
仕事部屋に通されると、蔵元さんは入り口脇のパソコンカウンターに着き、秋斗さんはデスでカタカタカタカタとひたすらキーボードを叩く。
「今、佳境なんです」
と、蔵元さんが教えてくれた。
「蔵元さん、コーヒー飲まれますか?」
「お気になさらないでください」
「すぐに用意しますから」
簡易キッチンへ向かうと、後ろから秋斗さんに声をかけられた。
「俺、ハーブティーが飲みたいな」
「……ハーブティー、ですか?」
「うん。翠葉ちゃんが淹れたのが飲みたい」
「……蔵元さんはハーブティー飲めますか?」
こちらを振り返った蔵元さんは、
「私はなんでも大丈夫です。というよりは、本当にお気遣いなく……」
三人分のお茶を用意すると、
「あと三十秒だけ待って。そしたら終わるからそっちのテーブルで飲む」
秋斗さんの言葉にカップはダイニングテーブルへ運ぶことにした。ひとつは蔵元さんのもとへ持っていく。と、背後に人の気配を感じた。
私の真後ろには秋斗さんが立っていて、「蔵元、これデータ」とUSBメモリを差し出した。
「お疲れ様です」
言うと、蔵元さんはまだ熱いカップのハーブティーを一気に飲み干した。
「嘘――口の中火傷してませんかっ!?」
「大丈夫です。とても美味しかったです、ご馳走様」
蔵元さんは手早くカップを洗うと、ノートパソコンを抱えて仕事部屋を出ていった。
今、私が手にしているカップは秋斗さんが私のために、と買ってくれたガラスの耐熱カップ。
ガラスにエッチングという技法を施し、描いた部分がすりガラスとなって模様になるもの。
このカップにはアイビーの蔦のような模様が描かれている。その模様はハーブティーの爽やかなグリーンがよく映えた。
「嬉しそうにカップを見るよね?」
「はい。だって、きれいだから……」
「日曜日は僕の買い物にも付き合ってもらっていい?」
「秋斗さんのお買い物ですか?」
「朗元のカップを買いに行こうと思ってるんだ」
そういえば、先日そんなようなことを口にしていた。
「本気だったんですね」
「まぁね。翠葉ちゃんが手に取っているところを見なければ、気にも留めなかったんだけど」
と、笑う。
「秋斗さんはどのカップを買うのかな」
「どうせだから一緒に選ぼうよ」
こんなふうに話せる時間が好きだった。とても大切な時間に思えた。
時がキラキラと光るというのなら、こういうことを言うのだろう、と思えるほどに。
でも、キラキラは魔法だったみたい。魔法はいつか解けてしまう。それが六日なのだ――。
明後日の土曜日は、秋斗さんのお昼ご飯を作りにここへ来ることになっている。
その翌日、お出かけの最後に伝えよう。やっぱり一緒にいることはできません、と。"No"と伝えよう。
好きとか嫌いとか、そういうものではなかったみたい。ただ、その人につりあうかつりあわないか。考えてみれば年だってずいぶんと離れているし、蒼兄よりも年上なのだ。
自分を納得させるのには十分すぎる材料が揃っていた。
でも、こういう話はどうやって切り出すのかな……。
今はまだ考えたくない。あさっての夜までは考えるのをやめよう――。
お茶がまだ残るカップを見つつ、カップの向こう側に見える秋斗さんの手を見る。
土曜日、手をつないでデート、か……。
私はちゃんと言うことができるだろうか。
一緒にいる時間を楽しみたいと思うのに、どうしても思考はそっちへ行ってしまう。
「翠葉ちゃん、どうかした?」
突然の問いかけにびっくりして顔を上げる。
「検査結果が思わしくなかったとか?」
「いえ、数値的には今までととくに変わらずです」
「そう?」
「はい。だから大丈夫ですよ」
今、私にできる精一杯の笑顔。でも、側にいたいと思えば思うほど、顔が歪んでしまいそう。
「秋斗さんはもう少しお仕事ありますよね? 私、仮眠室で休ませていただいてもいいですか?」
立ち上がって仮眠室を見る。と、
「やっぱり具合が良くないんじゃないの?」
と、右手首を取られた。
「具合というか……検査フルコースで少し疲れてしまっただけです」
それは嘘じゃない……。
「ならいいけど……。五時くらいには出られるから。それまで休んでてもらえる?」
「はい」
仮眠室に入って右手首を左手で握りしめる。まだ秋斗さんのぬくもりが残っている気がして。
このあたたかさは知ると癖になる。一度知ってしまうと手放すのがとてもつらい……。
そう思うと、また目に涙が溜まり始めた。
翠葉、さっき病院で泣いたじゃない。もう泣いたらだめ。泣くなら、六日にきちんと返事をして別れたあと。
どちらにせよ、その日の夜から薬を飲み始めるのだ。そうすれば、しばらくは学校へ通えなくなるし、自分の体のことしか考えられなくなる。
その期間に、自分の気持ちにけじめをつけよう。欲張っちゃだめだ――。
ベッドに腰掛け、そのままゴロンと横になる。
ハープが弾きたい……。ピアノが弾きたい……。
感情を逃がす術を手にしたい――。
栞さんの家にハープを持ってきて良かった。でも、どちらかと言うならピアノを弾きたかったかもしれない。
大丈夫、六日に自宅へ帰ればいくらでも弾ける。ただ、起き上がるだけの気力や体力があればの話だけど……。
――人は欲する生き物。
朗元さんの言った言葉が頭によぎる。
――それを諦めたとき、人は人生の半分を捨てたことになる。
でも、それを手に取れない人はどうしたらいいの? 私は何を欲することができるの? 何なら手に入れることができるの?
わからない、わからないよ――。