光のもとでⅠ
25
仕事部屋を出ると、放送ブースの中には飛鳥ちゃんがいた。
『あっ! ただいま姫君たちの準備が整いました! 茜姫は真っ白なふわふわドレス、翠葉姫はピンクのプリンセスライン! どちらも清楚できれいかわいいです! 今回は一位同順位という結果のため、姫はふたり! ならばエスコートする王子もふたり必要ですよね? ってことで、二年連続王子という司先輩と二位だった美都先輩が王子を務めます! さ、これからテラスのセンター階段を下りて桜香苑へと移る模様です!』
ここにも仕掛け人がいたのね……。
カウンターの外では司先輩と美都先輩が待っていた。美都先輩も司先輩と同様の格好をしている。
「じゃ、俺は茜姫をエスコートさせていただこうかな」
美都先輩が茜先輩に手を差し出すと、同じように司先輩に手を差し出された。
「大丈夫だから……。翠には俺か海斗、佐野か簾条が必ず付く。ひとりにはならないし参加者の男に触れられることもない」
びっくりして桃華さんを見ると、
「何があったかは聞いてない。でも、どういう状況なのかは聞いた。大丈夫よ、絶対に怖い思いはさせないから」
「そうそう、うちには腕の立つ男が多いのよ? 会長なんてデジカメ班と称してボディガードみたいなものだし」
荒川先輩が笑いながら肩を軽く叩いてくれる。
「翠、手……」
頷き、先輩の左手に右手を乗せると軽く握られた。
「じゃ、行こうか!」
美都先輩の明るい声が図書室に響き、司先輩に手を引かれて図書室を出る。
図書棟のガラス戸の向こう、テラスにはたくさんの人がいた。
「広場でパーティーに参加できるのは総勢百人までだけど、基本全校生徒参加だから」
司先輩は面倒臭そうに教えてくれる。先輩の性格を考えると、こういうイベントに担ぎ出されること事体が不愉快なのだろう。
「あの……これはいつ決まったイベントなんですか?」
「簾条から話がきたのは先週の土曜日。間に全国模試を挟んだし、翠の薬飲み始めの時期も含めてどうなることかとヒヤヒヤさせられた」
「何から何まで……本当にいつもすみません」
「……今度こそ、借り貸しなしにしてもらいたい」
言うと、先輩は私を見下ろす。
「ここからは、下手でも笑顔を貼り付けて歩いてもらおうか?」
背筋がゾクリとする笑みを向けられた。久しぶりに拝む氷の女王スマイルだ。
「今考えたこと当てようか? それ、別名称があるらしい」
「あ、それはぜひともうかがいたいです」
「……絶対零度の笑顔だって」
言いながら先輩は微笑んだ。けれども、その笑みはすぐに消える。
「階段を下りて、広場に着いたらすぐに座れる。そこまではがんばって。無理な場合は強制的に横抱きすることになるから」
「……そんな恥ずかしい思いはしたくないのでがんばります」
「努力して」
こんな受け答えのほうがしっくりくる。
司先輩の言葉は容赦ないもののほうがデフォルト仕様と私の中に刷り込まれているらしい。
「ガラス戸開くよ!」
春日先輩の声が廊下に響いた。
「男を見たくなければ目を伏せて歩けばいい。俺がエスコートしてるんだから転びはしない」
「……はい」
図書棟を出ると球技大会のときのような歓声の嵐で、ところどころから声をかけられる。中には、「茜ちゃんファンクラブ」なんて旗まで掲げられていたり、「藤宮くーん」とハートの目をした女の子たちがたくさん。「朝陽様ーっ」と声がかかれば、前を歩く朝陽先輩が軽く手を上げ笑顔で応える。
「翠葉ちゃーん!」
聞き覚えのある声に視線を向けると、加納先輩がカメラを構えていた。
フリーズする前にシャッターを切られる。
先に階段を下りる里見先輩たちに続き、三メートルほど間をとって私たちも下り始める。と、突如襲うは眩暈。
「翠、右手を俺の右手に。左手で腰から支える。歩けるところまで行こう」
耳もとで囁かれ、その言葉に頷く。
色んなところから自分にも声をかけられているのはわかっていた。でも、男子の声が全部昨日の声をかけてきた人の声に思えて怖い。
「いつものシャットアウト機能使えば?」
シャットアウト機能……?
あ、と思ったけれど、今は何に集中したらいいんだろう。思いつかない……。
「……先輩、何か話してくれませんか? 先輩の声だけに集中すればシャットアウトできるかも……」
「……話、ね。俺の苦手分野なんだけど」
「すみません……」
先輩は苦手分野と言いつつも、天気予報の話や部活の練習内容、二年になったときのカリキュラムを話し続けてくれた。
私はその話を聞いて相槌を打ったり、びっくりして司先輩の顔を見上げたり、時には笑ったりしながら歩く。
そうしているうちに目的地、桜香苑前の芝生広場に着いた。
そこにいた人たちは、男子は黒のスーツを身に纏い、女の子たちは色とりどりのカクテルドレスを着ていた。
男女のバランスが取れているところを見ると、六十四人という数字は男女で均等に割られたのかもしれない。
「先輩……みんなが着ている衣装はどこから調達したんですか?」
「持っている人間は自前。持ってない人間は演劇部や嵐の家から貸し出し」
「……荒川先輩のおうち?」
「嵐の実家はウェディング系の貸し衣装店」
そうなんだ……。
ふと、先日桃華さんにウエストのサイズなどを訊かれたことを思い出す。
あれはきっと今日用意する衣装のためだったんだ……。
用意された席に着くと海斗くんがやってきた。
「翠葉、かわいいな! これ、絶対に蒼樹さん見たかったと思うぞ。あとで写真見せてあげな!」
にかっと笑ってはパシャ、と写真を撮られる。
「翠葉、カメラは写真部と海斗しか持ってないから安心して」
と、ドレスの裾を直してくれていた桃華さんが教えてくれた。
パーティー会場が設置されている外側に吹奏楽部の席があり、軽快なワルツが流れてくる。そちらに視線を移したとき、
「……ベーゼンドルファーがどうして――」
「弾けるように手配するって言っただろ」
「っ……!? まさかここでなんて言いませんよねっ!?」
「もちろん、ここで、だ。やってもらわないと困る。わざわざ業者に依頼して運んでもらったんだ」
なんでもないふうに口にするから、先輩の両頬をつねりたくなる。
手ならしもしていなければ、最近はピアノにすら触れていなかった。でも、目の前にあるのは憧れのベーゼンドルファーで――。
「失敗が怖いならオリジナルを弾けばいい。ピアノにもオリジナル曲はあるだろ?」
先輩は口端を上げ、蒼兄から聞いたであろう情報を駆使してくる。
確かにピアノにもオリジナル曲はある。でも、人前で弾くことには慣れていない。
どうしよう……。
慣れてないものは慣れてない。でも、司先輩に「できない」と言うのはどうしてか癪だった。
「こんなすてきな舞台、台無しにしてもいいなら弾きますけど」
そう口にすると、先輩は笑みを深めた。そして、す、と右手を上げる。
まるでそれが合図だったかのように、吹奏楽の演奏は止み、飛鳥ちゃんの声がスピーカーから聞こえてきた。
『今から、御園生翠葉によるピアノリサイタルが始まります! 曲は彼女のオリジナル曲! どうぞご清聴お願いいたします!』
ここまで仕組まれたことだったのっ!?
飛鳥ちゃんはまだ図書室のブースの中にいるはずで、先輩との今の会話を聞けるわけもない。きっと、最初からこうなるようにシナリオが作られていたのだ。
どこまでも侮れない――。
「お手をどうぞ」
爽やかな笑みの司先輩にエスコートされピアノの前まで行く。
ピアノは一段高くなった木製のステージの上にあった。
「とりあえず二曲か三曲」
二曲か三曲――オリジナルで何を弾く……?
「この際、即興でもなんでもいいけど?」
先輩は面白いものを見るような目で口にする。
「……あんまりいじめると泣きますよっ!?」
「……四回続けてはどうかと思うけど?」
「……なら、少し体温分けてくださいっ。緊張しっぱなしで手首痛い」
すると、昨日してくれたように手首を握ってくれた。
「どうしたらこんなに冷たくなるんだか……」
呆れたように言われることが我慢ならなかった。
「人が驚くようなことをサラッとするからでしょうっ!?」
先輩は、「それは申し訳ない」と申し訳なさを微塵にも感じさせない笑顔で口にする。
私は小さくうーうー唸りながら、
「……ありがとうございます。もう、大丈夫……。でも、本当にどうなっても知りませんからっ」
言って、軽く会釈をしてピアノの椅子に座った。
ピアノさん、こんにちは。今日はよろしくね。
心の中で挨拶を済ませ、そっと鍵盤に手を乗せる。
一曲目は手慣らしを含めて即興演奏でいいだろう。
弾き始めてピアノの感触を得る。鍵盤はかなり軽い。ペダルも問題ない。音量はどのくらい出るのか……。
そんなことを確認しながら二分ほど引き続け、キリのいいところで曲を締める。
二曲目は何を弾こう……。
ふと視線を上げると頭上に広がる桜の枝葉が目に入った。オリジナル曲、"桜の下で逢いましょう"を弾こう。
音の響きを重視し、しっとりとした旋律に少しずつ和音を増やしていく。ハープで弾くよりも自由に弾ける気がした。
三曲目は何を弾こう……。吐き出したい感情はたくさんある。ここで全部吐き出していいだろうか。このピアノなら、この子なら全部受け止めてくれる気がする――。
誕生会とか姫と王子のお披露目だとか、そういう場には相応しくないのかもしれない。でも、今弾きたいのは――。
目を瞑り、鍵盤に手を乗せる。そして指先から流れ出したのは悲しみの旋律だった。
先日ハープで弾き続けていたのはこの曲だったかもしれない。
今でもあの日の記憶は曖昧だ。ただ、雅さんの声と目、そして笑い声やハイヒールを履いた後ろ姿のみが鮮明に浮かび上がる。
明日は手をつないで歩くなんて無理かもしれない。でも、最後はきちんと自分で終わらせたい。そう決意して曲を終わらせた。
椅子から立ち上がり、ドレスを少しつまんでお辞儀する。頭を下げた瞬間、重力に逆らえず涙が零れた。
すと、私の前に人が立つ。ゆっくりと顔を上げると司先輩が右脇から支えてくれた。ギャラリーに私の涙が見えないような位置取りで。
「つらいんだな……」
「…………」
「今泣いている聴衆が何人いると思う?」
先輩の肩越しに人がいる方を見ると、手にハンカチを持っている人が数人目に入った。
「……だから、どうなっても知らないって事前に断ったじゃないですか」
「それ、泣きながら言い返すことか?」
「そうだ……私、泣いてるんですけど、どうしましょう……」
なんだか奇妙な会話をしている気分だ。
「安心しろ。ステージの裏に四方を囲んだブースがある。そこで嵐が待ってる。それに、これから茜先輩のソロリサイタルだ。聴衆はそっちに気を取られる」
「え……里見先輩のリサイタルって……?」
「先輩は声楽をやってる。高一のときにアルバムも出した」
「知らなかった……」
声楽はノータッチだ。
「それ、すごく聞きたいです……」
「なら、早く顔直してこい」
言われて背を押された。
『あっ! ただいま姫君たちの準備が整いました! 茜姫は真っ白なふわふわドレス、翠葉姫はピンクのプリンセスライン! どちらも清楚できれいかわいいです! 今回は一位同順位という結果のため、姫はふたり! ならばエスコートする王子もふたり必要ですよね? ってことで、二年連続王子という司先輩と二位だった美都先輩が王子を務めます! さ、これからテラスのセンター階段を下りて桜香苑へと移る模様です!』
ここにも仕掛け人がいたのね……。
カウンターの外では司先輩と美都先輩が待っていた。美都先輩も司先輩と同様の格好をしている。
「じゃ、俺は茜姫をエスコートさせていただこうかな」
美都先輩が茜先輩に手を差し出すと、同じように司先輩に手を差し出された。
「大丈夫だから……。翠には俺か海斗、佐野か簾条が必ず付く。ひとりにはならないし参加者の男に触れられることもない」
びっくりして桃華さんを見ると、
「何があったかは聞いてない。でも、どういう状況なのかは聞いた。大丈夫よ、絶対に怖い思いはさせないから」
「そうそう、うちには腕の立つ男が多いのよ? 会長なんてデジカメ班と称してボディガードみたいなものだし」
荒川先輩が笑いながら肩を軽く叩いてくれる。
「翠、手……」
頷き、先輩の左手に右手を乗せると軽く握られた。
「じゃ、行こうか!」
美都先輩の明るい声が図書室に響き、司先輩に手を引かれて図書室を出る。
図書棟のガラス戸の向こう、テラスにはたくさんの人がいた。
「広場でパーティーに参加できるのは総勢百人までだけど、基本全校生徒参加だから」
司先輩は面倒臭そうに教えてくれる。先輩の性格を考えると、こういうイベントに担ぎ出されること事体が不愉快なのだろう。
「あの……これはいつ決まったイベントなんですか?」
「簾条から話がきたのは先週の土曜日。間に全国模試を挟んだし、翠の薬飲み始めの時期も含めてどうなることかとヒヤヒヤさせられた」
「何から何まで……本当にいつもすみません」
「……今度こそ、借り貸しなしにしてもらいたい」
言うと、先輩は私を見下ろす。
「ここからは、下手でも笑顔を貼り付けて歩いてもらおうか?」
背筋がゾクリとする笑みを向けられた。久しぶりに拝む氷の女王スマイルだ。
「今考えたこと当てようか? それ、別名称があるらしい」
「あ、それはぜひともうかがいたいです」
「……絶対零度の笑顔だって」
言いながら先輩は微笑んだ。けれども、その笑みはすぐに消える。
「階段を下りて、広場に着いたらすぐに座れる。そこまではがんばって。無理な場合は強制的に横抱きすることになるから」
「……そんな恥ずかしい思いはしたくないのでがんばります」
「努力して」
こんな受け答えのほうがしっくりくる。
司先輩の言葉は容赦ないもののほうがデフォルト仕様と私の中に刷り込まれているらしい。
「ガラス戸開くよ!」
春日先輩の声が廊下に響いた。
「男を見たくなければ目を伏せて歩けばいい。俺がエスコートしてるんだから転びはしない」
「……はい」
図書棟を出ると球技大会のときのような歓声の嵐で、ところどころから声をかけられる。中には、「茜ちゃんファンクラブ」なんて旗まで掲げられていたり、「藤宮くーん」とハートの目をした女の子たちがたくさん。「朝陽様ーっ」と声がかかれば、前を歩く朝陽先輩が軽く手を上げ笑顔で応える。
「翠葉ちゃーん!」
聞き覚えのある声に視線を向けると、加納先輩がカメラを構えていた。
フリーズする前にシャッターを切られる。
先に階段を下りる里見先輩たちに続き、三メートルほど間をとって私たちも下り始める。と、突如襲うは眩暈。
「翠、右手を俺の右手に。左手で腰から支える。歩けるところまで行こう」
耳もとで囁かれ、その言葉に頷く。
色んなところから自分にも声をかけられているのはわかっていた。でも、男子の声が全部昨日の声をかけてきた人の声に思えて怖い。
「いつものシャットアウト機能使えば?」
シャットアウト機能……?
あ、と思ったけれど、今は何に集中したらいいんだろう。思いつかない……。
「……先輩、何か話してくれませんか? 先輩の声だけに集中すればシャットアウトできるかも……」
「……話、ね。俺の苦手分野なんだけど」
「すみません……」
先輩は苦手分野と言いつつも、天気予報の話や部活の練習内容、二年になったときのカリキュラムを話し続けてくれた。
私はその話を聞いて相槌を打ったり、びっくりして司先輩の顔を見上げたり、時には笑ったりしながら歩く。
そうしているうちに目的地、桜香苑前の芝生広場に着いた。
そこにいた人たちは、男子は黒のスーツを身に纏い、女の子たちは色とりどりのカクテルドレスを着ていた。
男女のバランスが取れているところを見ると、六十四人という数字は男女で均等に割られたのかもしれない。
「先輩……みんなが着ている衣装はどこから調達したんですか?」
「持っている人間は自前。持ってない人間は演劇部や嵐の家から貸し出し」
「……荒川先輩のおうち?」
「嵐の実家はウェディング系の貸し衣装店」
そうなんだ……。
ふと、先日桃華さんにウエストのサイズなどを訊かれたことを思い出す。
あれはきっと今日用意する衣装のためだったんだ……。
用意された席に着くと海斗くんがやってきた。
「翠葉、かわいいな! これ、絶対に蒼樹さん見たかったと思うぞ。あとで写真見せてあげな!」
にかっと笑ってはパシャ、と写真を撮られる。
「翠葉、カメラは写真部と海斗しか持ってないから安心して」
と、ドレスの裾を直してくれていた桃華さんが教えてくれた。
パーティー会場が設置されている外側に吹奏楽部の席があり、軽快なワルツが流れてくる。そちらに視線を移したとき、
「……ベーゼンドルファーがどうして――」
「弾けるように手配するって言っただろ」
「っ……!? まさかここでなんて言いませんよねっ!?」
「もちろん、ここで、だ。やってもらわないと困る。わざわざ業者に依頼して運んでもらったんだ」
なんでもないふうに口にするから、先輩の両頬をつねりたくなる。
手ならしもしていなければ、最近はピアノにすら触れていなかった。でも、目の前にあるのは憧れのベーゼンドルファーで――。
「失敗が怖いならオリジナルを弾けばいい。ピアノにもオリジナル曲はあるだろ?」
先輩は口端を上げ、蒼兄から聞いたであろう情報を駆使してくる。
確かにピアノにもオリジナル曲はある。でも、人前で弾くことには慣れていない。
どうしよう……。
慣れてないものは慣れてない。でも、司先輩に「できない」と言うのはどうしてか癪だった。
「こんなすてきな舞台、台無しにしてもいいなら弾きますけど」
そう口にすると、先輩は笑みを深めた。そして、す、と右手を上げる。
まるでそれが合図だったかのように、吹奏楽の演奏は止み、飛鳥ちゃんの声がスピーカーから聞こえてきた。
『今から、御園生翠葉によるピアノリサイタルが始まります! 曲は彼女のオリジナル曲! どうぞご清聴お願いいたします!』
ここまで仕組まれたことだったのっ!?
飛鳥ちゃんはまだ図書室のブースの中にいるはずで、先輩との今の会話を聞けるわけもない。きっと、最初からこうなるようにシナリオが作られていたのだ。
どこまでも侮れない――。
「お手をどうぞ」
爽やかな笑みの司先輩にエスコートされピアノの前まで行く。
ピアノは一段高くなった木製のステージの上にあった。
「とりあえず二曲か三曲」
二曲か三曲――オリジナルで何を弾く……?
「この際、即興でもなんでもいいけど?」
先輩は面白いものを見るような目で口にする。
「……あんまりいじめると泣きますよっ!?」
「……四回続けてはどうかと思うけど?」
「……なら、少し体温分けてくださいっ。緊張しっぱなしで手首痛い」
すると、昨日してくれたように手首を握ってくれた。
「どうしたらこんなに冷たくなるんだか……」
呆れたように言われることが我慢ならなかった。
「人が驚くようなことをサラッとするからでしょうっ!?」
先輩は、「それは申し訳ない」と申し訳なさを微塵にも感じさせない笑顔で口にする。
私は小さくうーうー唸りながら、
「……ありがとうございます。もう、大丈夫……。でも、本当にどうなっても知りませんからっ」
言って、軽く会釈をしてピアノの椅子に座った。
ピアノさん、こんにちは。今日はよろしくね。
心の中で挨拶を済ませ、そっと鍵盤に手を乗せる。
一曲目は手慣らしを含めて即興演奏でいいだろう。
弾き始めてピアノの感触を得る。鍵盤はかなり軽い。ペダルも問題ない。音量はどのくらい出るのか……。
そんなことを確認しながら二分ほど引き続け、キリのいいところで曲を締める。
二曲目は何を弾こう……。
ふと視線を上げると頭上に広がる桜の枝葉が目に入った。オリジナル曲、"桜の下で逢いましょう"を弾こう。
音の響きを重視し、しっとりとした旋律に少しずつ和音を増やしていく。ハープで弾くよりも自由に弾ける気がした。
三曲目は何を弾こう……。吐き出したい感情はたくさんある。ここで全部吐き出していいだろうか。このピアノなら、この子なら全部受け止めてくれる気がする――。
誕生会とか姫と王子のお披露目だとか、そういう場には相応しくないのかもしれない。でも、今弾きたいのは――。
目を瞑り、鍵盤に手を乗せる。そして指先から流れ出したのは悲しみの旋律だった。
先日ハープで弾き続けていたのはこの曲だったかもしれない。
今でもあの日の記憶は曖昧だ。ただ、雅さんの声と目、そして笑い声やハイヒールを履いた後ろ姿のみが鮮明に浮かび上がる。
明日は手をつないで歩くなんて無理かもしれない。でも、最後はきちんと自分で終わらせたい。そう決意して曲を終わらせた。
椅子から立ち上がり、ドレスを少しつまんでお辞儀する。頭を下げた瞬間、重力に逆らえず涙が零れた。
すと、私の前に人が立つ。ゆっくりと顔を上げると司先輩が右脇から支えてくれた。ギャラリーに私の涙が見えないような位置取りで。
「つらいんだな……」
「…………」
「今泣いている聴衆が何人いると思う?」
先輩の肩越しに人がいる方を見ると、手にハンカチを持っている人が数人目に入った。
「……だから、どうなっても知らないって事前に断ったじゃないですか」
「それ、泣きながら言い返すことか?」
「そうだ……私、泣いてるんですけど、どうしましょう……」
なんだか奇妙な会話をしている気分だ。
「安心しろ。ステージの裏に四方を囲んだブースがある。そこで嵐が待ってる。それに、これから茜先輩のソロリサイタルだ。聴衆はそっちに気を取られる」
「え……里見先輩のリサイタルって……?」
「先輩は声楽をやってる。高一のときにアルバムも出した」
「知らなかった……」
声楽はノータッチだ。
「それ、すごく聞きたいです……」
「なら、早く顔直してこい」
言われて背を押された。