光のもとでⅠ
27
更衣室で着替えを済ませ図書室に戻ってくると、
「翠葉、俺ガット買いに行かなくちゃいけないから司と帰って?」
試験が終わればひとりでマンションへ帰ることになる。そう思っていただけに疑問が浮かぶ。
「……司先輩は今日もマンションなんですか?」
「……姉さんの部屋に忘れ物」
なるほど、と納得しているとデジカメのディスプレイを見ていた加納先輩に声をかけられた。
「翠葉ちゃん、来週には写真ができるから楽しみにしててね」
来週――私はきっと学校に来れない。
「翠葉ちゃん?」
「あ、えと……楽しみにしてます」
「翠葉ちゃんの"色々"はよくわからないけど、きっと大丈夫だよ。何もかもうまくいく」
そうキラキラの笑顔で言われた。
そうだといいな……。
みんなに挨拶して帰ろうとしたとき、
「御園生さん、俺のこと忘れてない?」
サザナミくんに引き止められた。
彼だけには近寄りがたくて挨拶をできないでいたのは確かだった。苦手意識が全面に出てしまうことを申し訳なく思いながら、
「ごめんなさい。やっと名前覚えました。サザナミセンリくん、さようなら」
言ってすぐに外へ出ようとした。けど、できなかった。
サザナミくんの大きな手が右肩に乗せられ、ゾクリ、と嫌な感触が全身に広がる。
「千里放せっ」
美都先輩の声がしてすぐ、桃華さんに名前を呼ばれた。
桃華さんは私の隣にいるのに、どうしてこんなに声が遠く聞こえるんだろう。どうして篭って聞こえるんだろう。まるで水の中にいるみたい。すべての音がくぐもって聞こえだす。
途端、いつもとは違う眩暈に襲われた。目の前がぐにゃりと渦を巻いたようにゆがみだす。
怖いっ――。
耳を両手で押さえ、目を瞑ってその場にしゃがみこむ。そうすることが精一杯だった。
どうして、どうしてこんな――。
「翠、大丈夫だから。漣は海斗が外に連れ出したからもういない」
不思議に思って顔を上げる。どうしてか、司先輩の声だけがクリアに聞こえた。
先輩は私の正面に膝を付き、
「悪い、漣には翠に触れるなって話してなかった」
謝られて困る。
「先輩が謝ることじゃないです。おかしいのは私だから……」
「翠葉……?」
桃華さんが不安そうに顔を覗き込んでいた。今度はきちんとクリアな音として認知する。
「なんかね、ちょっと変なの……。司先輩も海斗くんも、蒼兄も佐野くんも平気なの。なのに、ほかの人はダメみたい……」
「秋斗先生も?」
コクリと頷く。
「今朝言っていたのはそれ?」
消化したら話すと話した件だろう。
「ううん。それはまた別」
「……翠葉は隠し事が多くて本当に困るわ。でも、あまり深刻にならないようにね」
いつものように笑ってもらえたことにほっとした。
「うん、ありがとう……」
司先輩に付き添われるようにして図書室を出て、不安を抱えたままテラスの方へと目を向ける。と、先ほどまでは大勢いた人たちが見事にばらけていた。テラスの階下では貸し出していた双眼鏡の回収をしていたり、広場へと運ばれたガーデンセットを片付ける人たちもいる。
私たちは何もしなくていいのだろうか、と思っていると、
「心配しなくていい。最終確認は会長と朝陽が請け負うって言ってた」
「そう、なんですね……」
言葉少なにテラスを歩いていると、まだ残っていた女の子たちの視線が痛いくらいに浴びせられた。
きっと見られているのは司先輩。でも、ついでのように私へ向けられる視線は雅さんから向けられた視線と同種のもの。彼女たちにも"分不相応"と思われているのだろう。司先輩の隣に並ぶことを。
何も考えたくない。何も感じたくない。
そう思いながら、いつもより早足で逃げるように学校を出た。
「明日、どうするの?」
公道に出たところ、上り坂を歩きながら先輩に訊かれる。
「会うのは大丈夫だったの。ただ触れられなかっただけ……。だから、会います。伝えなくちゃいけないことがあるし」
「……そう。無理はするな。何かあれば連絡くれてかまわないから」
「ありがとうございます。でも……それで連絡しちゃったら四日連続で泣いてる私を見ることになりますよ?」
「…………」
「だから、明日はかけません。私も、泣いてるところばかりは見られたくないですから」
それに、明日は蒼兄が帰ってくる。だから大丈夫――。
「ひとつ訊いていい?」
「はい?」
先輩が足を止めたため、私のほうがほんの少し坂の上にいる。
「翠にとって俺は何?」
私にとって司先輩は、何……?
「え……と、同い年だけど先輩?」
「そうじゃなくて――以前、もう少し近づきたいって言ったと思うんだけど」
いつもは見下ろされて話すのに、今は視線の高さが同じくらいで変な感じだ。
「どう答えたらいいのかわからないけれど、関係上で言うなら先輩で友達未満。……すごく頼りになる人で、でも友達っていう気安さではなくて――ごめんなさい。これ以上にどんな言葉があるのか思いつかないです」
「……いや、いい」
そう言うと、すぐに私を追い越していってしまう。
質問の意図がまったくわからないまま、十階の玄関ポーチ前で別れた。
玄関ではいつものように栞さんが出迎えてくれる。
「あら、髪の毛巻くと雰囲気変わるわね? すごく似合ってるわ」
「校内展示ので姫になってしまって……。今日、姫と王子のお披露目会と生徒会就任式があったんです。それから、誕生会もしてもらえて……」
「良かったわね。生徒会では何をやるの?」
「会計って言われました」
「そう。イベントが大好きな学校だから、執行側になったとしても行事ごとに楽しめると思うわ。……でも、あれね? 翠葉ちゃん、髪の毛巻くと少し大人っぽく見えるわ」
言われてはっとする。
「私、今自分がどういう状態になってるのか知らなくて……」
「あら、もったいない」
栞さんに背中を押され、洗面所へ連れて行かれた。
鏡に映る自分は少しだけメイクをしていて、普段ストレートの髪の毛が緩いウェーブになっている。毛先がくるんとしているのが新鮮……。
「栞さん、これって栞さんにお願いしたらやってもらえますか?」
「明日?」
「はい……」
「秋斗くんと会って大丈夫なの?」
心配そうに訊かれる。
「たぶん、近寄りすぎたり触れたりしようと思わなければ大丈夫です」
そう言うと、「いいわよ」と快諾してくれた。
あと一時間でご飯と言われたので、その間にお風呂に入ることにした。
マスカラやおしろい、チークがついていることから、栞さんからクレンジングリキッドを借りての洗顔。マスカラはお湯につけるとつるんと剥がれて面白かった。
湯船に浸かって考えるのは秋斗さんのこと。
明日のこともあるから連絡はしなくてはいけない。メールが一番楽。でも、きちんと話をしたい気もする。だとしたら電話……。
考えてみたらいつもメールばかりで自分から電話をかけたことはなかった。
苦手だとは思う。でも、電話をかけよう……。最後くらいは勇気を出そう。
お風呂出て髪の毛を乾かし、客間に戻るとすぐに携帯を手に取った。
着信履歴から番号を呼び出すものの、その画面を見ては何度も深呼吸を繰り返す。そして、何度も通話ボタンを押してもコール音が鳴る前に切ってしまう。
今一歩、勇気が足りない……。
そうこうしていると、電話が突然鳴り出した。
秋斗さんからの電話を知らせる曲が部屋に鳴り響く。
意を決して通話ボタンを押すと、
『何度もかけては切るなんて、どうしたのかな?』
「えっ!?」
コール音は鳴らす前に切っていたはずなのに、どうして――!?
声に出して尋ねたわけではないのに、秋斗さんは説明をしてくれた。
『翠葉ちゃんが俺の番号にダイヤルすると、別のアプリが起動して俺に知らせてくれる仕掛けがあったりする』
携帯の向こうで笑う声がした。
……ということは、今までの動作がすべて筒抜けだったということだろうか。
恥ずかしい……。
『明日のことでしょう? やめておく?』
「っ……いえ、会いたいですっ」
『わかった……。でも、街中はやめよう。公園でのデートのみね』
気を遣われることに心がミシミシと音を立てる。
『いいね?』
「はい、ありがとうございます……」
『じゃ、明日一時に迎えに行くから』
「はい……。秋斗さん、今日はすみませんでした。お仕事の邪魔にもなっちゃいましたよね……」
『翠葉ちゃん、何度でも言うよ。俺はどんな翠葉ちゃんでも好きだから。じゃぁ、明日ね』
と、通話が切れた。
この期に及んで嬉しいと思ってしまう。でも、明日が終わればその言葉を聞くこともなくなるのだろう――。
「翠葉、俺ガット買いに行かなくちゃいけないから司と帰って?」
試験が終わればひとりでマンションへ帰ることになる。そう思っていただけに疑問が浮かぶ。
「……司先輩は今日もマンションなんですか?」
「……姉さんの部屋に忘れ物」
なるほど、と納得しているとデジカメのディスプレイを見ていた加納先輩に声をかけられた。
「翠葉ちゃん、来週には写真ができるから楽しみにしててね」
来週――私はきっと学校に来れない。
「翠葉ちゃん?」
「あ、えと……楽しみにしてます」
「翠葉ちゃんの"色々"はよくわからないけど、きっと大丈夫だよ。何もかもうまくいく」
そうキラキラの笑顔で言われた。
そうだといいな……。
みんなに挨拶して帰ろうとしたとき、
「御園生さん、俺のこと忘れてない?」
サザナミくんに引き止められた。
彼だけには近寄りがたくて挨拶をできないでいたのは確かだった。苦手意識が全面に出てしまうことを申し訳なく思いながら、
「ごめんなさい。やっと名前覚えました。サザナミセンリくん、さようなら」
言ってすぐに外へ出ようとした。けど、できなかった。
サザナミくんの大きな手が右肩に乗せられ、ゾクリ、と嫌な感触が全身に広がる。
「千里放せっ」
美都先輩の声がしてすぐ、桃華さんに名前を呼ばれた。
桃華さんは私の隣にいるのに、どうしてこんなに声が遠く聞こえるんだろう。どうして篭って聞こえるんだろう。まるで水の中にいるみたい。すべての音がくぐもって聞こえだす。
途端、いつもとは違う眩暈に襲われた。目の前がぐにゃりと渦を巻いたようにゆがみだす。
怖いっ――。
耳を両手で押さえ、目を瞑ってその場にしゃがみこむ。そうすることが精一杯だった。
どうして、どうしてこんな――。
「翠、大丈夫だから。漣は海斗が外に連れ出したからもういない」
不思議に思って顔を上げる。どうしてか、司先輩の声だけがクリアに聞こえた。
先輩は私の正面に膝を付き、
「悪い、漣には翠に触れるなって話してなかった」
謝られて困る。
「先輩が謝ることじゃないです。おかしいのは私だから……」
「翠葉……?」
桃華さんが不安そうに顔を覗き込んでいた。今度はきちんとクリアな音として認知する。
「なんかね、ちょっと変なの……。司先輩も海斗くんも、蒼兄も佐野くんも平気なの。なのに、ほかの人はダメみたい……」
「秋斗先生も?」
コクリと頷く。
「今朝言っていたのはそれ?」
消化したら話すと話した件だろう。
「ううん。それはまた別」
「……翠葉は隠し事が多くて本当に困るわ。でも、あまり深刻にならないようにね」
いつものように笑ってもらえたことにほっとした。
「うん、ありがとう……」
司先輩に付き添われるようにして図書室を出て、不安を抱えたままテラスの方へと目を向ける。と、先ほどまでは大勢いた人たちが見事にばらけていた。テラスの階下では貸し出していた双眼鏡の回収をしていたり、広場へと運ばれたガーデンセットを片付ける人たちもいる。
私たちは何もしなくていいのだろうか、と思っていると、
「心配しなくていい。最終確認は会長と朝陽が請け負うって言ってた」
「そう、なんですね……」
言葉少なにテラスを歩いていると、まだ残っていた女の子たちの視線が痛いくらいに浴びせられた。
きっと見られているのは司先輩。でも、ついでのように私へ向けられる視線は雅さんから向けられた視線と同種のもの。彼女たちにも"分不相応"と思われているのだろう。司先輩の隣に並ぶことを。
何も考えたくない。何も感じたくない。
そう思いながら、いつもより早足で逃げるように学校を出た。
「明日、どうするの?」
公道に出たところ、上り坂を歩きながら先輩に訊かれる。
「会うのは大丈夫だったの。ただ触れられなかっただけ……。だから、会います。伝えなくちゃいけないことがあるし」
「……そう。無理はするな。何かあれば連絡くれてかまわないから」
「ありがとうございます。でも……それで連絡しちゃったら四日連続で泣いてる私を見ることになりますよ?」
「…………」
「だから、明日はかけません。私も、泣いてるところばかりは見られたくないですから」
それに、明日は蒼兄が帰ってくる。だから大丈夫――。
「ひとつ訊いていい?」
「はい?」
先輩が足を止めたため、私のほうがほんの少し坂の上にいる。
「翠にとって俺は何?」
私にとって司先輩は、何……?
「え……と、同い年だけど先輩?」
「そうじゃなくて――以前、もう少し近づきたいって言ったと思うんだけど」
いつもは見下ろされて話すのに、今は視線の高さが同じくらいで変な感じだ。
「どう答えたらいいのかわからないけれど、関係上で言うなら先輩で友達未満。……すごく頼りになる人で、でも友達っていう気安さではなくて――ごめんなさい。これ以上にどんな言葉があるのか思いつかないです」
「……いや、いい」
そう言うと、すぐに私を追い越していってしまう。
質問の意図がまったくわからないまま、十階の玄関ポーチ前で別れた。
玄関ではいつものように栞さんが出迎えてくれる。
「あら、髪の毛巻くと雰囲気変わるわね? すごく似合ってるわ」
「校内展示ので姫になってしまって……。今日、姫と王子のお披露目会と生徒会就任式があったんです。それから、誕生会もしてもらえて……」
「良かったわね。生徒会では何をやるの?」
「会計って言われました」
「そう。イベントが大好きな学校だから、執行側になったとしても行事ごとに楽しめると思うわ。……でも、あれね? 翠葉ちゃん、髪の毛巻くと少し大人っぽく見えるわ」
言われてはっとする。
「私、今自分がどういう状態になってるのか知らなくて……」
「あら、もったいない」
栞さんに背中を押され、洗面所へ連れて行かれた。
鏡に映る自分は少しだけメイクをしていて、普段ストレートの髪の毛が緩いウェーブになっている。毛先がくるんとしているのが新鮮……。
「栞さん、これって栞さんにお願いしたらやってもらえますか?」
「明日?」
「はい……」
「秋斗くんと会って大丈夫なの?」
心配そうに訊かれる。
「たぶん、近寄りすぎたり触れたりしようと思わなければ大丈夫です」
そう言うと、「いいわよ」と快諾してくれた。
あと一時間でご飯と言われたので、その間にお風呂に入ることにした。
マスカラやおしろい、チークがついていることから、栞さんからクレンジングリキッドを借りての洗顔。マスカラはお湯につけるとつるんと剥がれて面白かった。
湯船に浸かって考えるのは秋斗さんのこと。
明日のこともあるから連絡はしなくてはいけない。メールが一番楽。でも、きちんと話をしたい気もする。だとしたら電話……。
考えてみたらいつもメールばかりで自分から電話をかけたことはなかった。
苦手だとは思う。でも、電話をかけよう……。最後くらいは勇気を出そう。
お風呂出て髪の毛を乾かし、客間に戻るとすぐに携帯を手に取った。
着信履歴から番号を呼び出すものの、その画面を見ては何度も深呼吸を繰り返す。そして、何度も通話ボタンを押してもコール音が鳴る前に切ってしまう。
今一歩、勇気が足りない……。
そうこうしていると、電話が突然鳴り出した。
秋斗さんからの電話を知らせる曲が部屋に鳴り響く。
意を決して通話ボタンを押すと、
『何度もかけては切るなんて、どうしたのかな?』
「えっ!?」
コール音は鳴らす前に切っていたはずなのに、どうして――!?
声に出して尋ねたわけではないのに、秋斗さんは説明をしてくれた。
『翠葉ちゃんが俺の番号にダイヤルすると、別のアプリが起動して俺に知らせてくれる仕掛けがあったりする』
携帯の向こうで笑う声がした。
……ということは、今までの動作がすべて筒抜けだったということだろうか。
恥ずかしい……。
『明日のことでしょう? やめておく?』
「っ……いえ、会いたいですっ」
『わかった……。でも、街中はやめよう。公園でのデートのみね』
気を遣われることに心がミシミシと音を立てる。
『いいね?』
「はい、ありがとうございます……」
『じゃ、明日一時に迎えに行くから』
「はい……。秋斗さん、今日はすみませんでした。お仕事の邪魔にもなっちゃいましたよね……」
『翠葉ちゃん、何度でも言うよ。俺はどんな翠葉ちゃんでも好きだから。じゃぁ、明日ね』
と、通話が切れた。
この期に及んで嬉しいと思ってしまう。でも、明日が終わればその言葉を聞くこともなくなるのだろう――。