光のもとでⅠ
02
季節によって空の色は違う。今日の空は桜との相性がとても良さそう。
そんなことを思いながら飾り棚に置いてあるカメラに目をやる。
今日から高校に通う。自分の足で……というわけではないけれど、私の行動範囲が広がる。
この一年間、家と病院と近くの公園だけが私の行動範囲だった。この三ヶ所しかひとりで動ける場所がなかった。
今日から少しだけ――ほんの少しだけ、私の世界は広くなる。
「翠葉ちゃーん? 起きてるー?」
リビングから栞さんの声が聞こえる。
今年の二月半ばから、看護師兼家政婦という名目で神崎栞(かんざきしおり)さんが通ってくるようになった。
今年は仕事の都合で両親が留守がちになるためである。
通常なら、両親は家で仕事ができる人たちだ。打ち合わせで外出したり現況確認に赴くことがあっても、たいていのことは文明の利器を駆使すれば外に出ずともなんとかなってしまう。
それが、去年の一月に応募したコンペを見事勝ち取り、その仕事の関係で外出が如実に増えた。
今回の仕事は今まで扱ってきたものより規模が大きいため、色々と勝手が違うのだとか……。
去年の秋から下準備に入っていたそれは年を明けて本格的に始動し、今では月に五日も帰ってこられればいい状態。
「蒼兄と私だけだし、お手伝いさんがいなくても大丈夫だと思うよ?」
幸い、料理を作るのは好きだし、ふたり分なら量も少ない。食材は学校帰りに蒼兄と買いに行けばいいだろう。洗濯は毎日するほど汚れ物がでるわけではないだろうし、掃除だって毎日やらなくちゃいけないわけでもない。
――が、家族三人に揃って却下された。
「翠葉のことも蒼樹のことも、とても信頼しているわ。でも、翠葉の体調だけは心配なのよ。側に居られないからなおのこと。今回お願いする方は看護師の資格も持っている人だから……。これだけは聞き分けてくれないかしら?」
母に諭され、
「蒼樹だって大学で実験が長引けば一緒に帰れない日だってあるだろうし、研究室に泊まりってこともあるだろう。そういう日に愛娘が家にひとりっていうのはなぁ……。父さんは心配だ。近頃は物騒な世の中だしなぁ……」
今にも泣きそうな顔をして言う父。
追い討ちをかけるように兄が一言。
「翠葉の体調だけは信用ないからなぁ……。それに、学校に通うだけでも相当体力使うぞ?」
さすがにそれを言われると何も言えなかった。
私ができると思っていることと、実際にやれることにはかなり差異がある。
頭の中では、現実の自分よりも少し多く体力が見積もられているみたい。
見誤って行動して、しまった……と思うことも少なくない。
普段、子どものすることにあまり干渉することのない両親が、「心配だからお願い」と言うことを無下にはできなかった。
そんないきさつがあり、今は栞さんが通ってきてくれている。
「翠葉ちゃーん?」
コンコン、とドアをノックされる。
「今行きます」
「慌てず急いで出てきてね?」
「はい」
チャコールグレーのワンピースに同じ生地のボレロ。袖口とスカートの裾にボルドーのラインが二本入っている。白いシャツの襟元には、サテン生地のボルドーのリボン。
これが私の通う高校の制服。
因みに、ワンピースは膝丈とロングの二種類あり、今日の私は膝丈ワンピース。
久しぶりに着た制服は気持ちをシャキっとさせてくれた。その感覚がくすぐったくて、鏡の前で顔が緩む。
「翠葉、せっかくのハーブティが冷めるぞ?」
蒼兄の声に慌ててかばんを持ちドアの前で立ち振り返る。
出かける前に、自分の部屋を見渡すのは私の習慣。
去年、私の入院中に急ピッチで進められたおうちの改装。
改装前、私の部屋は二階にあった。今はリビングの隣に作られた十畳ほどの部屋を使っている。もともとは温室があったところ。
そのつくりを活かし、南の窓は床から天井までほぼ全面ガラス張り。もちろんガラスはUVカット仕様。
西側に出窓がついていて、東側がリビングに併設している。北側の壁面は半分までがクローゼット。もう半分は床から天井までの造り付けの本棚。
本棚には、地震対策を兼ねて引き戸のドアがついている。
腰より下には写真集や図鑑、楽譜等の割と大きめなものが入れられるようになっていて、腰より上には文庫本などが入れられる前後二列のスライド式。収納力はかなり高い。
西側には飾り棚と勉強机代わりのカウンターがつくり付けられていて、その並びにベッドが置いてある。東側の入り口脇には簡易キッチンもついている。
温室の水撒き用にあった水道管をそのまま利用したらしい。
そのほかには、オフホワイトの布張りのソファとガラスのローテーブル。
ソファーの後ろには大好きな楽器、メープル素材のアイリッシュハープ。
窓際には豊かに葉を茂らせたベンジャミン。ソファの脇にはハート型の葉っぱが特徴のアンスリウム。出窓とローテーブルには小さなヘデラがちょこんと飾ってある。
カラフルなものも女の子らしいものも何もない、ナチュラルテイストにまとめられたインテリア。
蒼兄が設計したものをお父さんが補強し、お母さんと蒼兄が動線を考慮して配置した家具たち。
家族の優しさが詰まっているこの部屋は、私のかけがえのない宝物。
「……学校、行ってくるね」
何に声をかけるでもなく口にする。
ドアを開ければそこはリビング。
自室のドアから少し離れたところにラタンでできたテーブルセットが置いてある。そこに蒼兄は座っていた。
「蒼兄、おはよう」
コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた兄が顔を上げ、メガネの奥にある目が少し細まる。
蒼兄のこの表情がとても好き。
フレームなしのシンプルなメガネは兄のきれいな顔を邪魔しない。ちょっと耳にかかる長さの髪は、陽の光に透けて茶色く見える。
無表情だと一見冷たそうにも見えるけど、これは間違いなく美形といわれる部類に属すると思う。
「制服、似合ってる」
その言葉が素直に嬉しい。
「……けどな、タイムリミットまであと十五分だ。がんばれよ?」
にっこりと笑顔で言われ、時計に目をやる。
七時十分には出ると言われていたのに、気付けば六時五十五分を指していた。
「え!? もうそんな時間!?」
慌ててダイニングテーブルに着くと、栞さんが温かい具だくさんのスープを出してくれた。
「翠葉ちゃん似合ってるわ。懐かしいわね、その制服」
「……栞さんも藤宮の出身なんですか?」
「あら、話してなかったかしら? 十年以上前の話よ」
栞さんはふふ、と柔らかに笑った。
その、鈴を転がしたようなかわいらしい声がとても好き。
栞さんは私より身長がやや低く、肩の上でくるんとしている髪の毛がかわいらしく見えるけれど、全体的に見ればきれいな人だと思う。
なんていうのかな? "きれい"と"かわいい"が混在している感じ。
「高校時代は本当に楽しかったわ。翠葉ちゃんもたくさん友達つくってすてきな恋をしてね」
「友達とすてきな恋、ですか? ……なんだか別世界のことみたいで考えられません」
それが正直な感想だった。
「あら、若い子がそんなこと言ってちゃだめよ? 高校三年間なんてあっという間に終わっちゃうんだから。思う存分楽しまなくちゃ。ね?」
私は苦笑しつつ答える。
「努力します」
「あっ! 好きな人ができたらぜひ教えてちょうだいね? 蒼くんよりも先ならなおいいわ」
「ちょっと、栞さんっ……俺のかわいい翠葉を独り占めしないでください」
「あら、いつも独り占めしてるのは蒼くんのほうじゃない。翠葉ちゃん、彼氏なんかできたら大変よ? きっと零樹れいじゅさんや碧みどりさんより、蒼くんのほうが小舅なんじゃないかしら?」
慌てる蒼兄にクスクス笑う栞さん。こんなやり取りは日常茶飯事。
栞さんが来てくれて良かったと思う。
両親が仕事で忙しくなってからも、この家は常に会話が絶えない環境を保っていた。
出かけるときには「いってらっしゃい」、帰ってきたら「おかえりなさい」。
なんてことのない一言だけど、そう声をかけてくれる人がいる家は、なんだかとてもあたたかく感じるから。
そんな環境を作ってくれた両親と、協力してくれている栞さんに感謝――。
そんなことを思いながら飾り棚に置いてあるカメラに目をやる。
今日から高校に通う。自分の足で……というわけではないけれど、私の行動範囲が広がる。
この一年間、家と病院と近くの公園だけが私の行動範囲だった。この三ヶ所しかひとりで動ける場所がなかった。
今日から少しだけ――ほんの少しだけ、私の世界は広くなる。
「翠葉ちゃーん? 起きてるー?」
リビングから栞さんの声が聞こえる。
今年の二月半ばから、看護師兼家政婦という名目で神崎栞(かんざきしおり)さんが通ってくるようになった。
今年は仕事の都合で両親が留守がちになるためである。
通常なら、両親は家で仕事ができる人たちだ。打ち合わせで外出したり現況確認に赴くことがあっても、たいていのことは文明の利器を駆使すれば外に出ずともなんとかなってしまう。
それが、去年の一月に応募したコンペを見事勝ち取り、その仕事の関係で外出が如実に増えた。
今回の仕事は今まで扱ってきたものより規模が大きいため、色々と勝手が違うのだとか……。
去年の秋から下準備に入っていたそれは年を明けて本格的に始動し、今では月に五日も帰ってこられればいい状態。
「蒼兄と私だけだし、お手伝いさんがいなくても大丈夫だと思うよ?」
幸い、料理を作るのは好きだし、ふたり分なら量も少ない。食材は学校帰りに蒼兄と買いに行けばいいだろう。洗濯は毎日するほど汚れ物がでるわけではないだろうし、掃除だって毎日やらなくちゃいけないわけでもない。
――が、家族三人に揃って却下された。
「翠葉のことも蒼樹のことも、とても信頼しているわ。でも、翠葉の体調だけは心配なのよ。側に居られないからなおのこと。今回お願いする方は看護師の資格も持っている人だから……。これだけは聞き分けてくれないかしら?」
母に諭され、
「蒼樹だって大学で実験が長引けば一緒に帰れない日だってあるだろうし、研究室に泊まりってこともあるだろう。そういう日に愛娘が家にひとりっていうのはなぁ……。父さんは心配だ。近頃は物騒な世の中だしなぁ……」
今にも泣きそうな顔をして言う父。
追い討ちをかけるように兄が一言。
「翠葉の体調だけは信用ないからなぁ……。それに、学校に通うだけでも相当体力使うぞ?」
さすがにそれを言われると何も言えなかった。
私ができると思っていることと、実際にやれることにはかなり差異がある。
頭の中では、現実の自分よりも少し多く体力が見積もられているみたい。
見誤って行動して、しまった……と思うことも少なくない。
普段、子どものすることにあまり干渉することのない両親が、「心配だからお願い」と言うことを無下にはできなかった。
そんないきさつがあり、今は栞さんが通ってきてくれている。
「翠葉ちゃーん?」
コンコン、とドアをノックされる。
「今行きます」
「慌てず急いで出てきてね?」
「はい」
チャコールグレーのワンピースに同じ生地のボレロ。袖口とスカートの裾にボルドーのラインが二本入っている。白いシャツの襟元には、サテン生地のボルドーのリボン。
これが私の通う高校の制服。
因みに、ワンピースは膝丈とロングの二種類あり、今日の私は膝丈ワンピース。
久しぶりに着た制服は気持ちをシャキっとさせてくれた。その感覚がくすぐったくて、鏡の前で顔が緩む。
「翠葉、せっかくのハーブティが冷めるぞ?」
蒼兄の声に慌ててかばんを持ちドアの前で立ち振り返る。
出かける前に、自分の部屋を見渡すのは私の習慣。
去年、私の入院中に急ピッチで進められたおうちの改装。
改装前、私の部屋は二階にあった。今はリビングの隣に作られた十畳ほどの部屋を使っている。もともとは温室があったところ。
そのつくりを活かし、南の窓は床から天井までほぼ全面ガラス張り。もちろんガラスはUVカット仕様。
西側に出窓がついていて、東側がリビングに併設している。北側の壁面は半分までがクローゼット。もう半分は床から天井までの造り付けの本棚。
本棚には、地震対策を兼ねて引き戸のドアがついている。
腰より下には写真集や図鑑、楽譜等の割と大きめなものが入れられるようになっていて、腰より上には文庫本などが入れられる前後二列のスライド式。収納力はかなり高い。
西側には飾り棚と勉強机代わりのカウンターがつくり付けられていて、その並びにベッドが置いてある。東側の入り口脇には簡易キッチンもついている。
温室の水撒き用にあった水道管をそのまま利用したらしい。
そのほかには、オフホワイトの布張りのソファとガラスのローテーブル。
ソファーの後ろには大好きな楽器、メープル素材のアイリッシュハープ。
窓際には豊かに葉を茂らせたベンジャミン。ソファの脇にはハート型の葉っぱが特徴のアンスリウム。出窓とローテーブルには小さなヘデラがちょこんと飾ってある。
カラフルなものも女の子らしいものも何もない、ナチュラルテイストにまとめられたインテリア。
蒼兄が設計したものをお父さんが補強し、お母さんと蒼兄が動線を考慮して配置した家具たち。
家族の優しさが詰まっているこの部屋は、私のかけがえのない宝物。
「……学校、行ってくるね」
何に声をかけるでもなく口にする。
ドアを開ければそこはリビング。
自室のドアから少し離れたところにラタンでできたテーブルセットが置いてある。そこに蒼兄は座っていた。
「蒼兄、おはよう」
コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた兄が顔を上げ、メガネの奥にある目が少し細まる。
蒼兄のこの表情がとても好き。
フレームなしのシンプルなメガネは兄のきれいな顔を邪魔しない。ちょっと耳にかかる長さの髪は、陽の光に透けて茶色く見える。
無表情だと一見冷たそうにも見えるけど、これは間違いなく美形といわれる部類に属すると思う。
「制服、似合ってる」
その言葉が素直に嬉しい。
「……けどな、タイムリミットまであと十五分だ。がんばれよ?」
にっこりと笑顔で言われ、時計に目をやる。
七時十分には出ると言われていたのに、気付けば六時五十五分を指していた。
「え!? もうそんな時間!?」
慌ててダイニングテーブルに着くと、栞さんが温かい具だくさんのスープを出してくれた。
「翠葉ちゃん似合ってるわ。懐かしいわね、その制服」
「……栞さんも藤宮の出身なんですか?」
「あら、話してなかったかしら? 十年以上前の話よ」
栞さんはふふ、と柔らかに笑った。
その、鈴を転がしたようなかわいらしい声がとても好き。
栞さんは私より身長がやや低く、肩の上でくるんとしている髪の毛がかわいらしく見えるけれど、全体的に見ればきれいな人だと思う。
なんていうのかな? "きれい"と"かわいい"が混在している感じ。
「高校時代は本当に楽しかったわ。翠葉ちゃんもたくさん友達つくってすてきな恋をしてね」
「友達とすてきな恋、ですか? ……なんだか別世界のことみたいで考えられません」
それが正直な感想だった。
「あら、若い子がそんなこと言ってちゃだめよ? 高校三年間なんてあっという間に終わっちゃうんだから。思う存分楽しまなくちゃ。ね?」
私は苦笑しつつ答える。
「努力します」
「あっ! 好きな人ができたらぜひ教えてちょうだいね? 蒼くんよりも先ならなおいいわ」
「ちょっと、栞さんっ……俺のかわいい翠葉を独り占めしないでください」
「あら、いつも独り占めしてるのは蒼くんのほうじゃない。翠葉ちゃん、彼氏なんかできたら大変よ? きっと零樹れいじゅさんや碧みどりさんより、蒼くんのほうが小舅なんじゃないかしら?」
慌てる蒼兄にクスクス笑う栞さん。こんなやり取りは日常茶飯事。
栞さんが来てくれて良かったと思う。
両親が仕事で忙しくなってからも、この家は常に会話が絶えない環境を保っていた。
出かけるときには「いってらっしゃい」、帰ってきたら「おかえりなさい」。
なんてことのない一言だけど、そう声をかけてくれる人がいる家は、なんだかとてもあたたかく感じるから。
そんな環境を作ってくれた両親と、協力してくれている栞さんに感謝――。