光のもとでⅠ
27
ケーキを食べ終えると、藤宮先輩がみんなのお皿を片付け始めた。
「洗い物、私やります」
「翠葉ちゃんはお茶淹れてくれたから座ってて?」
秋斗さんに言われるも、なんだか落ち着かない。
マグカップを両手で掴みつつそわそわしていると、その手を秋斗さんの両手で覆われた。
「中性洗剤、素手で触れないでしょ?」
にっこり笑顔つき。
確かに中性洗剤は素手で触れない。触れたが最後、皮膚がかぶれて剥けてしまう。
でもっ、秋斗さんのこの手も苦手っ。
「家でも避けてることをここでやる必要はない」
こちらを振り返った先輩にも言われ、なんでも知られている状況に唸りたくなる。
すでに恥ずかしさは通り越してしまった。
そこにインターホンが鳴り、蒼兄が来たことを知らせる。
秋斗さんが大きめの声で、
「ロック解除」
言うとカチリ、とロックの外れる音がした。
これはいったいどういう仕掛けなのだろう……。
部屋の隅々に視線を巡らせたけれど、装置っぽいものは見当たらなかった。
蒼兄がつかつかと歩いてきて、
「先輩、この手はなんでしょう?」
と、私の手を包んでいた手を指差す。
「あぁ、洗い物をするって言うから、このきれいな手が荒れたら悲しいよって話をしていたところなんだ」
秋斗さんは悪びれることなく答える。
「御園生さん過保護すぎ……っていうか、病的にシスコン」
食器洗いを済ませた藤宮先輩が戻ってくる。
「なんて言われようと気にしないけどね」
蒼兄はにこりと笑って返した。
「いや、少しは気にしたほうがいいと思います。じゃないと、御園生さんが困ることになる。コレ、男の免疫ほとんどないんじゃないですか? ただ手を握られただけでこの赤面ですよ」
先輩が言い終わると、蒼兄と秋斗さんが顔を見合わせた。そして、ふたり揃って先輩に視線をやる。
「何」
先輩が訝しげに訊くと、
「あのさ、俺も御園生だけど翠葉も御園生なんだけど?」
「は?」
「司、どっちのことも御園生さんって呼んでるだろ? 聞いてるこっちが混乱する」
蒼兄と秋斗さんの言葉に、
「あぁ、そういえば……」
と、言われて気づいたふうの先輩。
「翠葉ちゃんて呼べばいいのに」
秋斗さんが言うと、先輩はものすごく微妙な顔をした。
「スイハチャン……スイハサン……スイハ……スイ……」
なんだか数日前の桃華さんを見ているようだ。
……っていうか、手っ。秋斗さんいい加減手を放してくださいっ。
手を動かそうとするとカップ内のお茶がちゃぷん、と波立つ。ゆえに、それ以上の力を加えることはできなかった。
「普通に翠葉って呼べばいいだろ?」
蒼兄が"スイハ"を推奨するものの、藤宮先輩は納得がいかない模様。
納得いかなくても納得されても、私の名前は"スイハ"なのだけど……。
「……翠、って呼んでいい?」
近くまで歩いてくると、先輩が秋斗さんの手をむしり取ってくれた。
先輩に感謝っ。もうこの際なんと呼ばれてもかまわない。
「聞いてる? 翠って呼びたいんだけど」
「問題ないです。ただ、普段呼ばれ慣れていないので反応できるかは怪しい限りですけど……」
「……それ、呼称を決める意味を無にする返答だと思わない?」
「……反応できるように努力します」
「そうして」
藤宮先輩は呆れたような面持ちで、今度はお皿を拭きに簡易キッチンへと戻っていった。
今のところ、私を"スイ"と呼ぶ人はいない。反応できるかはかなり怪しいけれどがんばることにしよう。
なんだか今日は先輩に少し近づけた気がした。
名前の呼び方が変わったからそう感じるだけなのか……。
桃華さん……この先輩、少し言葉の言い回しがおかしいけれど、そんなに怖い人でも、悪い人でもない気がします。
* * *
今日は栞さんが休みなので、てっきり電気のついていない暗い家に帰るものだと思っていた。けれど、帰ってくるとリビングには煌々と明かりが点いている。
玄関ホールと廊下は夕方六時を過ぎると勝手に点くようにタイマーがかけてあるけれど、リビングはおかしい……。
「今日、お父さんとお母さん、帰ってくる日だったっけ?」
不思議に思って蒼兄に訊くも、蒼兄のほうにも連絡は入っていないらしく首を傾げていた。
カーポートに車も停まっているのだから間違いなく両親が帰ってきているわけで……。
玄関を開けると、すき焼きの匂いに出迎えられた。
蒼兄とふたり、リビングに向かうと、
「翠葉ーっ! 父さんはな、翠葉に会いたくて会いたくて寂しくて死にそうだったぞー」
お父さんが私目がけて突進してきた。
身をかまえると、私とお父さんの間に蒼兄が仁王立ち。
「酒臭い体で翠葉に寄ーるーなっ」
と、一喝。
これは、我が家でよく見られる光景だ。
「ほらほら、いつまでそこにいるの? 早く着替えていらっしゃい」
お母さんのよく通る声が三人の意識をすき焼きに戻した。
私と蒼兄は手洗いうがいを済ませ、ルームウェアに着替えてダイニングテーブルに着いた。
お父さんはビールを一本飲んだだけで出来上がっている模様。対して、お母さんは日本酒を片手に鍋奉行中。
私と蒼兄はお鍋が食べられるようになるのをおとなしく待っていた。
お鍋のとき、お酒を口にしたお母さんに口出しできる人はこの家にいない。
蒼兄はそんなお母さんの相手をしつつ、上手に場を切り盛りする。
お父さんはお酒に弱く、幸せそうな顔でクラゲのようにくにゃんくにゃんとしていた。
なんだかんだと楽しく夕飯を済ませ、食後のお茶の時間。
「翠葉、この間の写真なんだけど」
「うん?」
「先方がとても気に入ってくれてね、使わせてもらうことになると思うわ」
「そうなの?」
「えぇ。それでね、本当は大きな額に入れるようなものを探していたのだけど、小さい写真をいくつか並べて飾ることにしたから、その写真を選ぶのに翠葉の撮った写真を見たいって言ってるの。アルバム、いくつか持っていってもいいかしら?」
「……どうぞ?」
私は深く考えずに返事をした。
「その数点が決まったらポストカードとしてフロント、それからゲストルームに置きたいって言ってたわ」
「……え?」
「翠葉~、高校生にして仕事なんて生意気だなぁ」
ほろ酔い加減のお父さんの言葉は放っておく。
「そうね、すごいことね。写真の使用料として一点につき一、二万が三ヶ月に一度入ってくるようになるわね」
私を置き去りにして、話しはまだ進む。
思わず蒼兄を振り仰ぐと、
「翠葉、すごいな」
真顔で返された。
蒼兄……それ、違う。私、真面目なコメントが欲しかったわけじゃなくて、これが冗談だと言ってほしかったの……。
「正式に依頼する際にはうちに来るって言ってたから、そのときに色々と訊いたらいいと思うわ」
お母さんの何気ない一言でその話は終わった。
人の人生はどこで何が起こるか本当にわかったものじゃない――。
「洗い物、私やります」
「翠葉ちゃんはお茶淹れてくれたから座ってて?」
秋斗さんに言われるも、なんだか落ち着かない。
マグカップを両手で掴みつつそわそわしていると、その手を秋斗さんの両手で覆われた。
「中性洗剤、素手で触れないでしょ?」
にっこり笑顔つき。
確かに中性洗剤は素手で触れない。触れたが最後、皮膚がかぶれて剥けてしまう。
でもっ、秋斗さんのこの手も苦手っ。
「家でも避けてることをここでやる必要はない」
こちらを振り返った先輩にも言われ、なんでも知られている状況に唸りたくなる。
すでに恥ずかしさは通り越してしまった。
そこにインターホンが鳴り、蒼兄が来たことを知らせる。
秋斗さんが大きめの声で、
「ロック解除」
言うとカチリ、とロックの外れる音がした。
これはいったいどういう仕掛けなのだろう……。
部屋の隅々に視線を巡らせたけれど、装置っぽいものは見当たらなかった。
蒼兄がつかつかと歩いてきて、
「先輩、この手はなんでしょう?」
と、私の手を包んでいた手を指差す。
「あぁ、洗い物をするって言うから、このきれいな手が荒れたら悲しいよって話をしていたところなんだ」
秋斗さんは悪びれることなく答える。
「御園生さん過保護すぎ……っていうか、病的にシスコン」
食器洗いを済ませた藤宮先輩が戻ってくる。
「なんて言われようと気にしないけどね」
蒼兄はにこりと笑って返した。
「いや、少しは気にしたほうがいいと思います。じゃないと、御園生さんが困ることになる。コレ、男の免疫ほとんどないんじゃないですか? ただ手を握られただけでこの赤面ですよ」
先輩が言い終わると、蒼兄と秋斗さんが顔を見合わせた。そして、ふたり揃って先輩に視線をやる。
「何」
先輩が訝しげに訊くと、
「あのさ、俺も御園生だけど翠葉も御園生なんだけど?」
「は?」
「司、どっちのことも御園生さんって呼んでるだろ? 聞いてるこっちが混乱する」
蒼兄と秋斗さんの言葉に、
「あぁ、そういえば……」
と、言われて気づいたふうの先輩。
「翠葉ちゃんて呼べばいいのに」
秋斗さんが言うと、先輩はものすごく微妙な顔をした。
「スイハチャン……スイハサン……スイハ……スイ……」
なんだか数日前の桃華さんを見ているようだ。
……っていうか、手っ。秋斗さんいい加減手を放してくださいっ。
手を動かそうとするとカップ内のお茶がちゃぷん、と波立つ。ゆえに、それ以上の力を加えることはできなかった。
「普通に翠葉って呼べばいいだろ?」
蒼兄が"スイハ"を推奨するものの、藤宮先輩は納得がいかない模様。
納得いかなくても納得されても、私の名前は"スイハ"なのだけど……。
「……翠、って呼んでいい?」
近くまで歩いてくると、先輩が秋斗さんの手をむしり取ってくれた。
先輩に感謝っ。もうこの際なんと呼ばれてもかまわない。
「聞いてる? 翠って呼びたいんだけど」
「問題ないです。ただ、普段呼ばれ慣れていないので反応できるかは怪しい限りですけど……」
「……それ、呼称を決める意味を無にする返答だと思わない?」
「……反応できるように努力します」
「そうして」
藤宮先輩は呆れたような面持ちで、今度はお皿を拭きに簡易キッチンへと戻っていった。
今のところ、私を"スイ"と呼ぶ人はいない。反応できるかはかなり怪しいけれどがんばることにしよう。
なんだか今日は先輩に少し近づけた気がした。
名前の呼び方が変わったからそう感じるだけなのか……。
桃華さん……この先輩、少し言葉の言い回しがおかしいけれど、そんなに怖い人でも、悪い人でもない気がします。
* * *
今日は栞さんが休みなので、てっきり電気のついていない暗い家に帰るものだと思っていた。けれど、帰ってくるとリビングには煌々と明かりが点いている。
玄関ホールと廊下は夕方六時を過ぎると勝手に点くようにタイマーがかけてあるけれど、リビングはおかしい……。
「今日、お父さんとお母さん、帰ってくる日だったっけ?」
不思議に思って蒼兄に訊くも、蒼兄のほうにも連絡は入っていないらしく首を傾げていた。
カーポートに車も停まっているのだから間違いなく両親が帰ってきているわけで……。
玄関を開けると、すき焼きの匂いに出迎えられた。
蒼兄とふたり、リビングに向かうと、
「翠葉ーっ! 父さんはな、翠葉に会いたくて会いたくて寂しくて死にそうだったぞー」
お父さんが私目がけて突進してきた。
身をかまえると、私とお父さんの間に蒼兄が仁王立ち。
「酒臭い体で翠葉に寄ーるーなっ」
と、一喝。
これは、我が家でよく見られる光景だ。
「ほらほら、いつまでそこにいるの? 早く着替えていらっしゃい」
お母さんのよく通る声が三人の意識をすき焼きに戻した。
私と蒼兄は手洗いうがいを済ませ、ルームウェアに着替えてダイニングテーブルに着いた。
お父さんはビールを一本飲んだだけで出来上がっている模様。対して、お母さんは日本酒を片手に鍋奉行中。
私と蒼兄はお鍋が食べられるようになるのをおとなしく待っていた。
お鍋のとき、お酒を口にしたお母さんに口出しできる人はこの家にいない。
蒼兄はそんなお母さんの相手をしつつ、上手に場を切り盛りする。
お父さんはお酒に弱く、幸せそうな顔でクラゲのようにくにゃんくにゃんとしていた。
なんだかんだと楽しく夕飯を済ませ、食後のお茶の時間。
「翠葉、この間の写真なんだけど」
「うん?」
「先方がとても気に入ってくれてね、使わせてもらうことになると思うわ」
「そうなの?」
「えぇ。それでね、本当は大きな額に入れるようなものを探していたのだけど、小さい写真をいくつか並べて飾ることにしたから、その写真を選ぶのに翠葉の撮った写真を見たいって言ってるの。アルバム、いくつか持っていってもいいかしら?」
「……どうぞ?」
私は深く考えずに返事をした。
「その数点が決まったらポストカードとしてフロント、それからゲストルームに置きたいって言ってたわ」
「……え?」
「翠葉~、高校生にして仕事なんて生意気だなぁ」
ほろ酔い加減のお父さんの言葉は放っておく。
「そうね、すごいことね。写真の使用料として一点につき一、二万が三ヶ月に一度入ってくるようになるわね」
私を置き去りにして、話しはまだ進む。
思わず蒼兄を振り仰ぐと、
「翠葉、すごいな」
真顔で返された。
蒼兄……それ、違う。私、真面目なコメントが欲しかったわけじゃなくて、これが冗談だと言ってほしかったの……。
「正式に依頼する際にはうちに来るって言ってたから、そのときに色々と訊いたらいいと思うわ」
お母さんの何気ない一言でその話は終わった。
人の人生はどこで何が起こるか本当にわかったものじゃない――。