光のもとでⅠ
16
「水分、摂るか? 水を口に含む程度なら許されてる」
蒼兄が水差しを手にした。
「うん、少しちょうだい」
水差しの先端を口に入れて、少しだけ傾けてくれる。と、口の中に冷たい水が広がった。
「ありがとう。冷たくて口の中サッパリした」
水差しをサイドテーブルに置くと、ベッド脇に置いてある椅子に腰掛けた。
蒼兄は何か言いたそうに口を開いては閉じる。話そうかどうしようか、そんな感じだ。
蒼兄……私もずっと蒼兄のことを見てきたんだよ。私の世界の大半は、蒼兄でできているのだから……。だからね、蒼兄の表情を読み取るのは得意なの。
「蒼兄……私は蒼兄が大好きだからね。すごくすごく、大好きだからね」
「俺もだよ。何より翠葉が大事……」
「わかってる……。ちゃんとわかってるから、そんな悲しそうな顔はしないでほしい」
「翠葉……俺、どうしたらいい? どうしたら翠葉を支えられる? 負担にならないでいられる?」
「っ…………」
湊先生との、さっきの会話を聞かれたのかもしれない。もしくは感じ取ったのか――。
「私は……。私は、いつも蒼兄に支えてもらってばかりだよ。とても感謝しているの……。言葉だけでは伝えられないくらい。その先の気持ちはね、私の問題なの。私が自分を受け入れられないから起こる葛藤だと思う。でも、それは口にしたくないの。口にしたらお父さんやお母さんが悲しむと思う。だから口にはできないの。……もう少し時間がかかるみたい。自分の体を受け入れるのには……。でも、蒼兄のことは大好きだから」
……どうしてかな。ありのままを答えただけなのに、涙が出てくる。そして、涙の向こうで蒼兄も泣いていた。
今はこんなことしか言えない。今の私じゃ蒼兄を救ってあげることはできない。
いっそのこと、離れてしまえば楽にしてあげられるのかもしれないのに、今の私にはそんな術すらない。
――健康な体になりたい。
なんて簡単な言葉なんだろう。けれども、これほど鋭利な刃物はないと思う。
それだけを純粋に思っていたとしても、裏を返せば「どうして健康な体じゃないの?」になってしまう。
両親が聞けば、「なぜ、健康に生んでくれなかったのか」と取らずにはいられないだろう。
だから、それだけは絶対に言わない。
ただ、"普通"を求めてる。それだけでいい。
健康じゃなくても普通に過ごすことが可能なら、それでいい。
これ以上、家族を傷つけたくない……。
自分の中の葛藤が最高潮に達したとき、自分がどれだけひどい言葉を発してしまうのか――考えただけでも恐怖に押し潰されそうになる。
それこそ、家から逃げ出したくなるほどに怖い。
そんなことになるくらいなら、自分が……自分が消えてなくなればいい――。
どうにもできない空気の中、ひとつのノックが変化をくれた。
「翠葉ちゃん、気分はどうだい?」
紫先生だった。
「大分いいです」
「そうかい? まだ三十八度台なんだからいいわけはないと思うんだけどなぁ。吐き気は治まったみたいだね。でも、今日一日は点滴で様子を見よう。調子がいいようならお昼には重湯を出すから食べてみようか」
ベッド脇まで来ると、モニターのチェックを始める。
「血圧は八十二の五十。まぁまぁだね。とにかく熱が下がるのを待とう。夕方までに三十七度前半まで下がれば今日は帰ってもいいよ。けど、三十八度近いならもう一泊しようか」
「はい。……今日は三十日? 明日は、一日?」
四日は無理だろうか……。
「何かあるのかな?」
紫先生に訊かれ、
「いえ。……弓道の試合を見に行く約束をしていたので」
「いつ?」
「四日の午前中です」
「じゃぁ、それまでには治さなくちゃね」
朗らかに笑われて、不思議な思いで紫先生の顔を見ていた。
治る……? 自宅安静とか言われない?
「翠葉ちゃんの回復しだいだよ。……翠葉ちゃん、十ある力を全部出してはいけないし、君の十はほかの人の十には満たない。これは事実だ。でもね、だからといって全部を諦める必要はないんだよ? そこは間違えないようにね」
全部を諦めなくてもいい……?
でも、先生……。その見極めが私には難しいです。
そこに、またドアが開く音がした。
「紫さん、これ」
湊先生がトレイを紫先生に渡す。
まだ帰ってなかったんだ……。
「あぁ、ありがとう」
トレイには注射器と薬のアンプルが入っていた。
「翠葉ちゃんの本意ではないだろうけれど、軽い睡眠薬だ。眠りなさい。眠ったほうが体が楽だし、回復も早まる。ビタミン剤も入れてあるし、寝ている間に熱が下がるように調節してみよう」
そう言うと、点滴の途中から注射で薬を注入される。少しすると、ふわっとした感じがして、そのまま霧の中に意識を手放した。
でも、それで良かったかもしれない。
これ以上、蒼兄の悲しい顔は見ていたくなかったし、私が元気になれば蒼兄も笑ってくれる。
早く、笑っている顔を見たい――。
蒼兄が水差しを手にした。
「うん、少しちょうだい」
水差しの先端を口に入れて、少しだけ傾けてくれる。と、口の中に冷たい水が広がった。
「ありがとう。冷たくて口の中サッパリした」
水差しをサイドテーブルに置くと、ベッド脇に置いてある椅子に腰掛けた。
蒼兄は何か言いたそうに口を開いては閉じる。話そうかどうしようか、そんな感じだ。
蒼兄……私もずっと蒼兄のことを見てきたんだよ。私の世界の大半は、蒼兄でできているのだから……。だからね、蒼兄の表情を読み取るのは得意なの。
「蒼兄……私は蒼兄が大好きだからね。すごくすごく、大好きだからね」
「俺もだよ。何より翠葉が大事……」
「わかってる……。ちゃんとわかってるから、そんな悲しそうな顔はしないでほしい」
「翠葉……俺、どうしたらいい? どうしたら翠葉を支えられる? 負担にならないでいられる?」
「っ…………」
湊先生との、さっきの会話を聞かれたのかもしれない。もしくは感じ取ったのか――。
「私は……。私は、いつも蒼兄に支えてもらってばかりだよ。とても感謝しているの……。言葉だけでは伝えられないくらい。その先の気持ちはね、私の問題なの。私が自分を受け入れられないから起こる葛藤だと思う。でも、それは口にしたくないの。口にしたらお父さんやお母さんが悲しむと思う。だから口にはできないの。……もう少し時間がかかるみたい。自分の体を受け入れるのには……。でも、蒼兄のことは大好きだから」
……どうしてかな。ありのままを答えただけなのに、涙が出てくる。そして、涙の向こうで蒼兄も泣いていた。
今はこんなことしか言えない。今の私じゃ蒼兄を救ってあげることはできない。
いっそのこと、離れてしまえば楽にしてあげられるのかもしれないのに、今の私にはそんな術すらない。
――健康な体になりたい。
なんて簡単な言葉なんだろう。けれども、これほど鋭利な刃物はないと思う。
それだけを純粋に思っていたとしても、裏を返せば「どうして健康な体じゃないの?」になってしまう。
両親が聞けば、「なぜ、健康に生んでくれなかったのか」と取らずにはいられないだろう。
だから、それだけは絶対に言わない。
ただ、"普通"を求めてる。それだけでいい。
健康じゃなくても普通に過ごすことが可能なら、それでいい。
これ以上、家族を傷つけたくない……。
自分の中の葛藤が最高潮に達したとき、自分がどれだけひどい言葉を発してしまうのか――考えただけでも恐怖に押し潰されそうになる。
それこそ、家から逃げ出したくなるほどに怖い。
そんなことになるくらいなら、自分が……自分が消えてなくなればいい――。
どうにもできない空気の中、ひとつのノックが変化をくれた。
「翠葉ちゃん、気分はどうだい?」
紫先生だった。
「大分いいです」
「そうかい? まだ三十八度台なんだからいいわけはないと思うんだけどなぁ。吐き気は治まったみたいだね。でも、今日一日は点滴で様子を見よう。調子がいいようならお昼には重湯を出すから食べてみようか」
ベッド脇まで来ると、モニターのチェックを始める。
「血圧は八十二の五十。まぁまぁだね。とにかく熱が下がるのを待とう。夕方までに三十七度前半まで下がれば今日は帰ってもいいよ。けど、三十八度近いならもう一泊しようか」
「はい。……今日は三十日? 明日は、一日?」
四日は無理だろうか……。
「何かあるのかな?」
紫先生に訊かれ、
「いえ。……弓道の試合を見に行く約束をしていたので」
「いつ?」
「四日の午前中です」
「じゃぁ、それまでには治さなくちゃね」
朗らかに笑われて、不思議な思いで紫先生の顔を見ていた。
治る……? 自宅安静とか言われない?
「翠葉ちゃんの回復しだいだよ。……翠葉ちゃん、十ある力を全部出してはいけないし、君の十はほかの人の十には満たない。これは事実だ。でもね、だからといって全部を諦める必要はないんだよ? そこは間違えないようにね」
全部を諦めなくてもいい……?
でも、先生……。その見極めが私には難しいです。
そこに、またドアが開く音がした。
「紫さん、これ」
湊先生がトレイを紫先生に渡す。
まだ帰ってなかったんだ……。
「あぁ、ありがとう」
トレイには注射器と薬のアンプルが入っていた。
「翠葉ちゃんの本意ではないだろうけれど、軽い睡眠薬だ。眠りなさい。眠ったほうが体が楽だし、回復も早まる。ビタミン剤も入れてあるし、寝ている間に熱が下がるように調節してみよう」
そう言うと、点滴の途中から注射で薬を注入される。少しすると、ふわっとした感じがして、そのまま霧の中に意識を手放した。
でも、それで良かったかもしれない。
これ以上、蒼兄の悲しい顔は見ていたくなかったし、私が元気になれば蒼兄も笑ってくれる。
早く、笑っている顔を見たい――。