光のもとでⅠ
21
湊先生の家がマンションの一室であることは、部屋のつくりを見て気づいてはいたけれど、部屋を出るまで十階のお部屋にいるとは思わなかった。
「うちは湊の家の隣なのよ」
と、栞さんが教えてくれた。
今は旦那様が海外赴任されているそうで、栞さんは幸倉にある実家からうちへと通ってきているらしい。
因みに、栞さんの旦那様もお医者様なのだとか……。
「あとは……そうね、栞の家の隣は秋斗の家よ」
さらりと湊先生に言われ、藤宮の人しか住んでいないのかと錯覚してしまう。
訊けば、十階は藤宮の人間しか住んでいないとのことだった。
「テスト期間前には司や海斗もこっちに帰ってきて勉強会をしてる」
そうなんだ、と思いながらエレベーターに乗った。
エレベーターの内装も普通のマンションよりはしっかりしたつくりだな、とは思っていた。でも、まさかエレベーターホールを出たところにコンシェルジュが二十四時間常駐しているエントランスがあると、誰が想像しただろうか。
このマンションでは、クリーニングや宅配の一切をコンシェルジュが管理しているという。
私と蒼兄が前を通ると軽く会釈され、私たちもなんとなく頭を下げて通った。
マンションの入り口には、アンティックゴールドのプレートに"Wisteria Village"と大きく書かれている。
間違いなく、このマンションは藤宮の持ち物なのだろう。
来客者用の駐車場に蒼兄の車が停めてあるというので、そこに向かって歩いていると、後方から走ってきた車が私たちの脇に停車した。
「こんばんは。翠葉ちゃんに蒼樹、どうしたの?」
運転していたのは秋斗さんだった。
「今まで湊さんのところにいたんです」
蒼兄が答えると、
「ふーん……。僕が本社で出たくもない会議に出てる間、楽しい時間を過ごしてたんだ?」
にこやかな顔で嫌みを言われた。
「いや、なんていうか……初の兄妹ケンカのようなものの仲裁をしてもらった感じです」
「は? ハツって初めてのハツ?」
蒼兄が苦笑しながら頷くと、
「蒼樹と翠葉ちゃんってこの年までケンカ知らずだったの!?」
と、驚かれる。
それはそんなにも珍しいことなのだろうか、と思っていると、
「ま、うちも年が離れているからあまりケンカにはならなかったけど……。それで? 解決できたの?」
その質問にはふたり揃って「はい」と答えた。
「うん……ふたりは一緒にいるほうがしっくりくるかも。これで、翠葉ちゃんに彼氏でもできようものなら蒼樹は困っちゃうね」
「そうですね……。任せられる相手ならいいんですけど」
ふたりの会話に参加できずに見ていると、
「じゃ、運転気をつけて」
と、車は駐車場に向かって緩やかに走り出した。
車に乗ると、そこにはいつもと同じ空気があった。
何を話すでもなく、居心地のいい空間。なんだかほっとする。
「翠葉……これからはケンカもしよう」
「ケンカ、かぁ……。あまり想像ができないな。でも……うん、ケンカもいっぱいしてお話しもしようね」
隣で満足そうに微笑む蒼兄がいた。
きっとこの先も、何があっても蒼兄は私の味方で、私は何があっても蒼兄の味方なのだろう。
それが、とても幸せなことだと思えた。
* * *
二日三日は課題をして過ごした。
どこかに出かけるほど体力は回復してなくて、でも四日の試合は見に行きたかったから。
課題も残すところあと二冊。
今月半ばまでにはなんとかなりそうかも。
そんなことを思いながら、日々参考書や単語帳、教科書との睨めっこ。
何せ、残っているのが英語と世界史なのだから仕方がない。
やっぱり、苦手な教科が最後に残ってしまった。
明日は八時五十分に弓道場の前で桃華さんと秋斗さんと待ち合わせ予定。
弓道場までは家から十五分ほどかかるから、少し早めに出て藤棚を堪能しよう。
課題をやりながら明日のことを考えていると、聞き慣れない着信音が鳴った。
誰……?
電話でなくメールだったようで、すぐに音が鳴り止む。
表のディスプレイを見ると、"藤宮司"と表示されていた。
「あ、れ……? 私、藤宮先輩のアドレスなんて知ってたっけ……?」
数少ない心当たりをめぐらせ、深く考えるのはやめにした。
きっと、秋斗さんに預けたとき、"お役立ち情報"としてインプットされたものなのだろう。
件名 :体調は?
本文 :高熱出して数日入院してたって
姉さんから聞いたけど平気なの?
明日は無理して来る必要ないから。
お大事に。
これだけの内容だった。
……そっか。一緒に暮らしているわけじゃないから、その日のうちに話が伝わることはないのね。
なんて返信しようか考えながら、メール作成画面を起動する。
件名 :大丈夫です
本文 :二日間入院して湊先生に治してもらいました。
それに昨日今日はおとなしくしていたので、
明日は桃華さんと秋斗さんと一緒に見に行く予定です。
試合、がんばってくださいね。
追記)
弓道場裏の藤棚がとてもきれいです。
送信すると、一分と経たない内に返信がくる。
件名 :あてにならない
本文 :翠の大丈夫ほどあてにならないものはない。
来るなら気をつけて来るように。
それじゃ、おやすみ。
返信を読みながら唸る。
「先輩にもそう思われているの?」
私の「大丈夫」はそれほどまでにあてにならないのだろか。
入学してからの自分を振り返り、仕方ないかも……とうな垂れる。
これからもきっと、大丈夫でも大丈夫じゃなくても「大丈夫」と答えてしまうことがあるだろう。
すぐには直せない。でも、いつかは直したい。
少しずつ変われたらいいな。
湊先生と蒼兄に、無理に変わる必要はない、と言われた。だから、気負わず、少しずつ変わっていきたい。
そのきっかけをくれたバングルに視線を移す。
これは第二の私のお守りと思おう。明日、秋斗さんに会ったらもう一度お礼を言おう。
課題を終わらせ、お風呂に入ろうかな、と思っていたらまた携帯が鳴りだした。
今日、私の携帯はよく活躍していると思う。
件名:課題どのぐらい進んだ?
本文:俺死にそう……。
佐野くんからのメールだった。
すぐに返信をする。
件名 :なんとかなりそう(たぶん)
本文:英語と世界史が残ってて泣きそう。
でも、終わる見通しはたったかも。
送信が終わるとすぐに返信されてくる。
件名 :なんだとー!?
本文 :俺なんてあと四冊も残ってんのに!
御園生は今日から俺の敵だ!
「え……そんなこと言われても」
そうはぼやくけれど、部活やりながらこの分量の課題をこなすのはかなりきついだろう。
これ以外にだって授業で出される宿題もあるのだから。
「佐野くん、それだけで私はすごいと思うよ」
件名 :敵はやだな
本文 :あと四冊なら今月中になんとかなるよ!
大丈夫、がんばって!
私、あと二回の補講くらいで終わっちゃうから、
そしたら、わからないところ見ようか?
そう、私はあと二回も補講を受ければ未履修分野の試験を受けられる状態になる。
なので、そのあとは補講に出ても出なくてもどっちでもかまわないのだ。
件名 :神に思えてきた
本文 :化学教えてくれたら助かる。
じゃ、俺勉強に戻るわ。
そこでメールは途絶えた。
佐野くんは毎日部活を終えて帰ってきてから課題をやっているのだろう。
先日の大会はあくまでも予選であり、本番は八月に控えている。それまで、練習がきつくなることはあっても、楽になることなどないはず。
そんなことを考えながらお風呂に入って上がってくると、蒼兄が窓際のテーブルセットでコーヒーを飲んでいた。
この時間にリビングでコーヒーブレイクとは珍しい。たいていなら、キッチンでコーヒーを作ったら自室に持っていってしまうのに。
「珍しいね? こんな時間にここでコーヒータイムなんて」
「あぁ、なんとなく。翠葉何してるかなと思って下に下りてきたら風呂入ってたから」
蒼兄の向かいに座って濡れた髪の毛をポンポンとタオルで叩いていると、
「髪、久しぶりに乾かそうか?」
訊かれてコクリと頷いた。
「うちは湊の家の隣なのよ」
と、栞さんが教えてくれた。
今は旦那様が海外赴任されているそうで、栞さんは幸倉にある実家からうちへと通ってきているらしい。
因みに、栞さんの旦那様もお医者様なのだとか……。
「あとは……そうね、栞の家の隣は秋斗の家よ」
さらりと湊先生に言われ、藤宮の人しか住んでいないのかと錯覚してしまう。
訊けば、十階は藤宮の人間しか住んでいないとのことだった。
「テスト期間前には司や海斗もこっちに帰ってきて勉強会をしてる」
そうなんだ、と思いながらエレベーターに乗った。
エレベーターの内装も普通のマンションよりはしっかりしたつくりだな、とは思っていた。でも、まさかエレベーターホールを出たところにコンシェルジュが二十四時間常駐しているエントランスがあると、誰が想像しただろうか。
このマンションでは、クリーニングや宅配の一切をコンシェルジュが管理しているという。
私と蒼兄が前を通ると軽く会釈され、私たちもなんとなく頭を下げて通った。
マンションの入り口には、アンティックゴールドのプレートに"Wisteria Village"と大きく書かれている。
間違いなく、このマンションは藤宮の持ち物なのだろう。
来客者用の駐車場に蒼兄の車が停めてあるというので、そこに向かって歩いていると、後方から走ってきた車が私たちの脇に停車した。
「こんばんは。翠葉ちゃんに蒼樹、どうしたの?」
運転していたのは秋斗さんだった。
「今まで湊さんのところにいたんです」
蒼兄が答えると、
「ふーん……。僕が本社で出たくもない会議に出てる間、楽しい時間を過ごしてたんだ?」
にこやかな顔で嫌みを言われた。
「いや、なんていうか……初の兄妹ケンカのようなものの仲裁をしてもらった感じです」
「は? ハツって初めてのハツ?」
蒼兄が苦笑しながら頷くと、
「蒼樹と翠葉ちゃんってこの年までケンカ知らずだったの!?」
と、驚かれる。
それはそんなにも珍しいことなのだろうか、と思っていると、
「ま、うちも年が離れているからあまりケンカにはならなかったけど……。それで? 解決できたの?」
その質問にはふたり揃って「はい」と答えた。
「うん……ふたりは一緒にいるほうがしっくりくるかも。これで、翠葉ちゃんに彼氏でもできようものなら蒼樹は困っちゃうね」
「そうですね……。任せられる相手ならいいんですけど」
ふたりの会話に参加できずに見ていると、
「じゃ、運転気をつけて」
と、車は駐車場に向かって緩やかに走り出した。
車に乗ると、そこにはいつもと同じ空気があった。
何を話すでもなく、居心地のいい空間。なんだかほっとする。
「翠葉……これからはケンカもしよう」
「ケンカ、かぁ……。あまり想像ができないな。でも……うん、ケンカもいっぱいしてお話しもしようね」
隣で満足そうに微笑む蒼兄がいた。
きっとこの先も、何があっても蒼兄は私の味方で、私は何があっても蒼兄の味方なのだろう。
それが、とても幸せなことだと思えた。
* * *
二日三日は課題をして過ごした。
どこかに出かけるほど体力は回復してなくて、でも四日の試合は見に行きたかったから。
課題も残すところあと二冊。
今月半ばまでにはなんとかなりそうかも。
そんなことを思いながら、日々参考書や単語帳、教科書との睨めっこ。
何せ、残っているのが英語と世界史なのだから仕方がない。
やっぱり、苦手な教科が最後に残ってしまった。
明日は八時五十分に弓道場の前で桃華さんと秋斗さんと待ち合わせ予定。
弓道場までは家から十五分ほどかかるから、少し早めに出て藤棚を堪能しよう。
課題をやりながら明日のことを考えていると、聞き慣れない着信音が鳴った。
誰……?
電話でなくメールだったようで、すぐに音が鳴り止む。
表のディスプレイを見ると、"藤宮司"と表示されていた。
「あ、れ……? 私、藤宮先輩のアドレスなんて知ってたっけ……?」
数少ない心当たりをめぐらせ、深く考えるのはやめにした。
きっと、秋斗さんに預けたとき、"お役立ち情報"としてインプットされたものなのだろう。
件名 :体調は?
本文 :高熱出して数日入院してたって
姉さんから聞いたけど平気なの?
明日は無理して来る必要ないから。
お大事に。
これだけの内容だった。
……そっか。一緒に暮らしているわけじゃないから、その日のうちに話が伝わることはないのね。
なんて返信しようか考えながら、メール作成画面を起動する。
件名 :大丈夫です
本文 :二日間入院して湊先生に治してもらいました。
それに昨日今日はおとなしくしていたので、
明日は桃華さんと秋斗さんと一緒に見に行く予定です。
試合、がんばってくださいね。
追記)
弓道場裏の藤棚がとてもきれいです。
送信すると、一分と経たない内に返信がくる。
件名 :あてにならない
本文 :翠の大丈夫ほどあてにならないものはない。
来るなら気をつけて来るように。
それじゃ、おやすみ。
返信を読みながら唸る。
「先輩にもそう思われているの?」
私の「大丈夫」はそれほどまでにあてにならないのだろか。
入学してからの自分を振り返り、仕方ないかも……とうな垂れる。
これからもきっと、大丈夫でも大丈夫じゃなくても「大丈夫」と答えてしまうことがあるだろう。
すぐには直せない。でも、いつかは直したい。
少しずつ変われたらいいな。
湊先生と蒼兄に、無理に変わる必要はない、と言われた。だから、気負わず、少しずつ変わっていきたい。
そのきっかけをくれたバングルに視線を移す。
これは第二の私のお守りと思おう。明日、秋斗さんに会ったらもう一度お礼を言おう。
課題を終わらせ、お風呂に入ろうかな、と思っていたらまた携帯が鳴りだした。
今日、私の携帯はよく活躍していると思う。
件名:課題どのぐらい進んだ?
本文:俺死にそう……。
佐野くんからのメールだった。
すぐに返信をする。
件名 :なんとかなりそう(たぶん)
本文:英語と世界史が残ってて泣きそう。
でも、終わる見通しはたったかも。
送信が終わるとすぐに返信されてくる。
件名 :なんだとー!?
本文 :俺なんてあと四冊も残ってんのに!
御園生は今日から俺の敵だ!
「え……そんなこと言われても」
そうはぼやくけれど、部活やりながらこの分量の課題をこなすのはかなりきついだろう。
これ以外にだって授業で出される宿題もあるのだから。
「佐野くん、それだけで私はすごいと思うよ」
件名 :敵はやだな
本文 :あと四冊なら今月中になんとかなるよ!
大丈夫、がんばって!
私、あと二回の補講くらいで終わっちゃうから、
そしたら、わからないところ見ようか?
そう、私はあと二回も補講を受ければ未履修分野の試験を受けられる状態になる。
なので、そのあとは補講に出ても出なくてもどっちでもかまわないのだ。
件名 :神に思えてきた
本文 :化学教えてくれたら助かる。
じゃ、俺勉強に戻るわ。
そこでメールは途絶えた。
佐野くんは毎日部活を終えて帰ってきてから課題をやっているのだろう。
先日の大会はあくまでも予選であり、本番は八月に控えている。それまで、練習がきつくなることはあっても、楽になることなどないはず。
そんなことを考えながらお風呂に入って上がってくると、蒼兄が窓際のテーブルセットでコーヒーを飲んでいた。
この時間にリビングでコーヒーブレイクとは珍しい。たいていなら、キッチンでコーヒーを作ったら自室に持っていってしまうのに。
「珍しいね? こんな時間にここでコーヒータイムなんて」
「あぁ、なんとなく。翠葉何してるかなと思って下に下りてきたら風呂入ってたから」
蒼兄の向かいに座って濡れた髪の毛をポンポンとタオルで叩いていると、
「髪、久しぶりに乾かそうか?」
訊かれてコクリと頷いた。