光のもとでⅠ
16 Side Soju 02話
車に戻り、シートを倒して両手で顔を覆う。
「まいったな……」
今度という今度は本当にまいった――。
自分を犠牲に考える傾向があるのには気づいていたけど、ただ自分より周りの人を優先するあまり、家に引き篭もってしまう可能性がある程度だと思っていた。
見当違いなことが多すぎた……。
消えたいと思っているなんて――。
ギリギリまで具合が悪いことを言わないのも、自分がいなくなればいいと思っているからなのか?
翠葉の心の奥底にあるものはどんな感情なんだろう。
知りたいけど、知るのが怖い。
知ったところで何かできることがあるのかも不明。
俺、今まで翠葉の何を見てきたんだろう。
思考の渦にどっぷりとはまっていた。そこへ、コンコン――。
異質な音が現実に引き戻す。
音の鳴った場所に視線を向けると、肩口で切りそろえられた黒髪ストレートが目に入った。
こちらを覗き込むように見ていたのは――。
「簾条さん……?」
口にするとにこりと笑う。
シートを直し窓を開けると、
「蒼樹さんがここにいるっていうのは……まさかとは思いますけど……」
きれいな顔が不安に曇る。
「昨夜、熱が四十度近くまで上がってね……。ずっと戻していたから救急外来に来たんだ。簾条さんは?」
「祖母が骨折して入院しているので、そのお見舞いの帰りです」
「そう……。ね、簾条さん。このあと予定がなければ少し付き合ってくれないかな? お昼、ご馳走するから」
「……いいですよ。第一、今の蒼樹さんをひとりにしておいたらろくなことなさそうですし……」
いたずらっぽく笑うと助手席側に周り、ドアを開けてするりと助手席におさまった。
「その代わり、翠葉の状態は訊かせてもらいますよ?」
車に乗り込んでからの条件提示に面食らった。
翠葉の状態――。
病状ならともかく、状態は……。
思わずハンドルにもたれかかる。
「言わないとダメ?」
「そんなすてきな顔されてもダメです」
満面の笑みで返された。
「じゃ、まずはご飯を食べに行こう。朝食食べてなくて腹ペコなんだ」
エンジンをかけ車を発進させる。
病院から割りと近くにある日本料理屋、"囲炉裏"。
ここは赴きあるつくりの割にランチが安い。
味もいいので翠葉とも何度か来たことがある。
中に入ると時間が時間ということもあり、個室しか空いていないと言われる。
簾条さんに個室でもいいか訪ねると、ふたつへんじでOKしてくれたので、奥の個室に案内してもらった。
個室に入ると、顔見知りの女将さんが挨拶にやって来た。
「まぁまぁ、蒼樹くん。今日は翠葉ちゃんと一緒じゃないのね?」
恰幅のいい体に着物と割烹着が良く似合う。
このお店は女将さんの人柄が客を集めいているというのも過言ではないようで、テーブル席より先にカウンター席が埋まる。
ゆえに、奥座敷と呼ばれる個室に通されても必ず女将さんがオーダーを取りにくる。
そして、愛想よく、まるで近所のおばさんのように話しかけてくれるのだ。
「えぇ、簾条さんは翠葉のクラスメイトなんです」
「あら、かわいい子の周りにはかわいい子が集まるようになっているのかしらね?」
言いながら朗らかに笑う。
「女将さん、お任せでふたつお願いできますか?」
ザックリとしたオーダーをすると、
「板さんに腕ふるってもらうから楽しみにしていてね。じゃ、ごゆっくり」
と、座敷をあとにした。
簾条さんと向かい合わせに座り、出されたお茶に口をつける。
「翠葉の状態は?」
切れ長の目を真っ直ぐ俺に向けてくる。
「……さっき話したとおりだよ。昨日、試合を見ている途中から発熱していたんだ。帰宅後は三十七度五分だったけど、八時を過ぎた時点で嘔吐し始めて、水分も受け付けなくなったらあっという間に四十度近くまで上がった。吐くものもないのに一向に嘔吐が止まらなくて、脱水症状を危惧して救急外来へ行ったんだ。今も点滴を打っているけど、まだ三十八度までしか下がってない。以上」
これで納得してくれるといい。
けれども、簾条さんは新たなる疑問を投げてきた。
「じゃぁ……なぜ蒼樹さんはこの世の終わりみたいな顔をしているんですか?」
――まいったな……。
「俺、そんなひどい顔してる?」
「それはもう……。まるで翠葉を失ってしまうんじゃないかって顔に見えます」
この子、千里眼の持ち主じゃないよな……。
「安心してください。私、千里眼なんて便利なもの持ち合わせていませんから。そもそも、そんなものを持っていたらわざわざ尋ねたりしません」
ふふ、とそれはそれは可憐に微笑まれたわけだけど……。
……翠葉よりもひとつ下だから八つ年下か。
全然そんな気がしないのはどうしてだろうか……。
「……簾条さんになら話せるかな。でも……結構ヘビーな話なんだよね。俺がこんな顔する程度には……」
正座していた足を崩し胡坐をかく。
もう、どんな体勢でいようと何も繕えない気がした。
「話したら……少しは蒼樹さんが楽になりますか?」
「……え?」
「翠葉の病状は説明のとおりなのでしょう? だとしたら、これから話すことは蒼樹さんがつらい話、ですよね? それなら、話して楽になるのでなければ聞く意味がありません」
……なんて格好いい子なんだろう。それに比べ、俺の格好悪さといったらない……。
「……少しは楽になれるかもしれない」
「なら、話してください。……でも、あまりにも情けない話でしたら総攻撃仕掛けますよ?」
容赦ない言葉を返され、思わずクスリと笑みがもれる。
「翠葉が具合が悪いことをなかなか人に言わないことは知ってるかな?」
「はい。でも、具合どうこうじゃなくて、思ってることもあまり口にしてくれませんけど」
「……そうだね。でも、それはたぶんまだ慣れてないだけなんだと思う。けど、体調のことを言わないのはそれとは違うんだ。近しい人間になればなるほど言わなくなる」
簾条さんは眉間にしわを寄せて、「わけがわかりません」と言った。
「俺や家族の心配は翠葉の負担になってしまっているらしい。心配をかけたくない、迷惑をかけたくない、自分のしわ寄せが誰かに行くのが嫌――。それらが翠葉の足枷になってる。だから、極力誰にも何も言わない」
簾条さんの顔色がさ、と変わった。
「ちょっと待ってください。だって、あの子……自分の具合が悪くなったら心肺停止に陥る危険性だって知ってるじゃないですかっ。それなのに誰にも言わないなんて、そんなこと考えてたら死んじゃ――」
口にしてはっとしたのか、口もとを両手で押さえる。
「……自分が消えてしまえばいいと思うときがあるらしい。さっき、病院の先生には自殺行為に等しいと言われたよ。本人がどんな状況になるかを理解しているうえで助けを求めないのだから、それに等しいと。俺も、少し甘く見ていたんだ……。自己犠牲の傾向があるのはわかっていたけど、まさかそこまでとは思っていなかった。それほどまでに、人の手を借りることや迷惑をかけること、人に心配されることが翠葉の心に重く圧し掛かっているなんて知らなかったんだ」
簾条さんの目がどんどん潤んでいって、端から一筋の涙がこぼれた。
静かに、ただ一筋の涙を流す。
「ごめんね、こんな話で」
目に溜まっている涙をハンカチで吸い取るように拭くと、それ以上の涙は流さなかった。
「いえ、聞きたいと言ったのは私ですから……。でも、翠葉、学校でとても楽しそうにしてましたよ?」
「そうだろうね……。俺にもそう見えた。それは嘘じゃないと思うんだ。今、間違いなく翠葉は楽しい学校生活を送ってると思うよ。それでも、倒れる度に、誰かに助けられる度に、本当は高校に通うことを諦めるべきだったとも思っているんだ。たぶん、いつもどこかで辞める覚悟をしているんだと思う。……恐らく、少し不調が続けばあっさりと手放すだろうね」
「――席、外してもいいですか?」
「え?」
「顔、洗ってきます」
言うと、すく、と立ち上がり座敷を出ていった。
翠葉とは違う細さの後ろ姿を見て少し後悔した。
「言うべきじゃなかったな……。いくらしっかりしていてもあの子は十五歳だ」
彼女が席を立っている間に料理が運ばれてきた。
彩がきれいで美味しそうだ。
翠葉にも食べさせたかったな。元気になったら連れてくるか……。
元気――。
元気ってなんだろう……。翠葉にとっての"元気"は、制約を守れば普通に生活ができる日のことを言う。
それを考えたら、ひどく切なくなる。
調子がいい日でも走ったりできるわけじゃない。それは精神的にどれほどきついことなのか……。
「まいったな……」
今度という今度は本当にまいった――。
自分を犠牲に考える傾向があるのには気づいていたけど、ただ自分より周りの人を優先するあまり、家に引き篭もってしまう可能性がある程度だと思っていた。
見当違いなことが多すぎた……。
消えたいと思っているなんて――。
ギリギリまで具合が悪いことを言わないのも、自分がいなくなればいいと思っているからなのか?
翠葉の心の奥底にあるものはどんな感情なんだろう。
知りたいけど、知るのが怖い。
知ったところで何かできることがあるのかも不明。
俺、今まで翠葉の何を見てきたんだろう。
思考の渦にどっぷりとはまっていた。そこへ、コンコン――。
異質な音が現実に引き戻す。
音の鳴った場所に視線を向けると、肩口で切りそろえられた黒髪ストレートが目に入った。
こちらを覗き込むように見ていたのは――。
「簾条さん……?」
口にするとにこりと笑う。
シートを直し窓を開けると、
「蒼樹さんがここにいるっていうのは……まさかとは思いますけど……」
きれいな顔が不安に曇る。
「昨夜、熱が四十度近くまで上がってね……。ずっと戻していたから救急外来に来たんだ。簾条さんは?」
「祖母が骨折して入院しているので、そのお見舞いの帰りです」
「そう……。ね、簾条さん。このあと予定がなければ少し付き合ってくれないかな? お昼、ご馳走するから」
「……いいですよ。第一、今の蒼樹さんをひとりにしておいたらろくなことなさそうですし……」
いたずらっぽく笑うと助手席側に周り、ドアを開けてするりと助手席におさまった。
「その代わり、翠葉の状態は訊かせてもらいますよ?」
車に乗り込んでからの条件提示に面食らった。
翠葉の状態――。
病状ならともかく、状態は……。
思わずハンドルにもたれかかる。
「言わないとダメ?」
「そんなすてきな顔されてもダメです」
満面の笑みで返された。
「じゃ、まずはご飯を食べに行こう。朝食食べてなくて腹ペコなんだ」
エンジンをかけ車を発進させる。
病院から割りと近くにある日本料理屋、"囲炉裏"。
ここは赴きあるつくりの割にランチが安い。
味もいいので翠葉とも何度か来たことがある。
中に入ると時間が時間ということもあり、個室しか空いていないと言われる。
簾条さんに個室でもいいか訪ねると、ふたつへんじでOKしてくれたので、奥の個室に案内してもらった。
個室に入ると、顔見知りの女将さんが挨拶にやって来た。
「まぁまぁ、蒼樹くん。今日は翠葉ちゃんと一緒じゃないのね?」
恰幅のいい体に着物と割烹着が良く似合う。
このお店は女将さんの人柄が客を集めいているというのも過言ではないようで、テーブル席より先にカウンター席が埋まる。
ゆえに、奥座敷と呼ばれる個室に通されても必ず女将さんがオーダーを取りにくる。
そして、愛想よく、まるで近所のおばさんのように話しかけてくれるのだ。
「えぇ、簾条さんは翠葉のクラスメイトなんです」
「あら、かわいい子の周りにはかわいい子が集まるようになっているのかしらね?」
言いながら朗らかに笑う。
「女将さん、お任せでふたつお願いできますか?」
ザックリとしたオーダーをすると、
「板さんに腕ふるってもらうから楽しみにしていてね。じゃ、ごゆっくり」
と、座敷をあとにした。
簾条さんと向かい合わせに座り、出されたお茶に口をつける。
「翠葉の状態は?」
切れ長の目を真っ直ぐ俺に向けてくる。
「……さっき話したとおりだよ。昨日、試合を見ている途中から発熱していたんだ。帰宅後は三十七度五分だったけど、八時を過ぎた時点で嘔吐し始めて、水分も受け付けなくなったらあっという間に四十度近くまで上がった。吐くものもないのに一向に嘔吐が止まらなくて、脱水症状を危惧して救急外来へ行ったんだ。今も点滴を打っているけど、まだ三十八度までしか下がってない。以上」
これで納得してくれるといい。
けれども、簾条さんは新たなる疑問を投げてきた。
「じゃぁ……なぜ蒼樹さんはこの世の終わりみたいな顔をしているんですか?」
――まいったな……。
「俺、そんなひどい顔してる?」
「それはもう……。まるで翠葉を失ってしまうんじゃないかって顔に見えます」
この子、千里眼の持ち主じゃないよな……。
「安心してください。私、千里眼なんて便利なもの持ち合わせていませんから。そもそも、そんなものを持っていたらわざわざ尋ねたりしません」
ふふ、とそれはそれは可憐に微笑まれたわけだけど……。
……翠葉よりもひとつ下だから八つ年下か。
全然そんな気がしないのはどうしてだろうか……。
「……簾条さんになら話せるかな。でも……結構ヘビーな話なんだよね。俺がこんな顔する程度には……」
正座していた足を崩し胡坐をかく。
もう、どんな体勢でいようと何も繕えない気がした。
「話したら……少しは蒼樹さんが楽になりますか?」
「……え?」
「翠葉の病状は説明のとおりなのでしょう? だとしたら、これから話すことは蒼樹さんがつらい話、ですよね? それなら、話して楽になるのでなければ聞く意味がありません」
……なんて格好いい子なんだろう。それに比べ、俺の格好悪さといったらない……。
「……少しは楽になれるかもしれない」
「なら、話してください。……でも、あまりにも情けない話でしたら総攻撃仕掛けますよ?」
容赦ない言葉を返され、思わずクスリと笑みがもれる。
「翠葉が具合が悪いことをなかなか人に言わないことは知ってるかな?」
「はい。でも、具合どうこうじゃなくて、思ってることもあまり口にしてくれませんけど」
「……そうだね。でも、それはたぶんまだ慣れてないだけなんだと思う。けど、体調のことを言わないのはそれとは違うんだ。近しい人間になればなるほど言わなくなる」
簾条さんは眉間にしわを寄せて、「わけがわかりません」と言った。
「俺や家族の心配は翠葉の負担になってしまっているらしい。心配をかけたくない、迷惑をかけたくない、自分のしわ寄せが誰かに行くのが嫌――。それらが翠葉の足枷になってる。だから、極力誰にも何も言わない」
簾条さんの顔色がさ、と変わった。
「ちょっと待ってください。だって、あの子……自分の具合が悪くなったら心肺停止に陥る危険性だって知ってるじゃないですかっ。それなのに誰にも言わないなんて、そんなこと考えてたら死んじゃ――」
口にしてはっとしたのか、口もとを両手で押さえる。
「……自分が消えてしまえばいいと思うときがあるらしい。さっき、病院の先生には自殺行為に等しいと言われたよ。本人がどんな状況になるかを理解しているうえで助けを求めないのだから、それに等しいと。俺も、少し甘く見ていたんだ……。自己犠牲の傾向があるのはわかっていたけど、まさかそこまでとは思っていなかった。それほどまでに、人の手を借りることや迷惑をかけること、人に心配されることが翠葉の心に重く圧し掛かっているなんて知らなかったんだ」
簾条さんの目がどんどん潤んでいって、端から一筋の涙がこぼれた。
静かに、ただ一筋の涙を流す。
「ごめんね、こんな話で」
目に溜まっている涙をハンカチで吸い取るように拭くと、それ以上の涙は流さなかった。
「いえ、聞きたいと言ったのは私ですから……。でも、翠葉、学校でとても楽しそうにしてましたよ?」
「そうだろうね……。俺にもそう見えた。それは嘘じゃないと思うんだ。今、間違いなく翠葉は楽しい学校生活を送ってると思うよ。それでも、倒れる度に、誰かに助けられる度に、本当は高校に通うことを諦めるべきだったとも思っているんだ。たぶん、いつもどこかで辞める覚悟をしているんだと思う。……恐らく、少し不調が続けばあっさりと手放すだろうね」
「――席、外してもいいですか?」
「え?」
「顔、洗ってきます」
言うと、すく、と立ち上がり座敷を出ていった。
翠葉とは違う細さの後ろ姿を見て少し後悔した。
「言うべきじゃなかったな……。いくらしっかりしていてもあの子は十五歳だ」
彼女が席を立っている間に料理が運ばれてきた。
彩がきれいで美味しそうだ。
翠葉にも食べさせたかったな。元気になったら連れてくるか……。
元気――。
元気ってなんだろう……。翠葉にとっての"元気"は、制約を守れば普通に生活ができる日のことを言う。
それを考えたら、ひどく切なくなる。
調子がいい日でも走ったりできるわけじゃない。それは精神的にどれほどきついことなのか……。