微笑みと共に、世界は眠る
「また夕陽を見に広場まで? この本といい、毎日毎日同じ景色を見て、ほんとよく飽きないね」
「飽きないことはいいことだろう」
「まあ、そうだけどさ……」
そう言っておいて、どこか納得のいかないような顔する。
「それに、その景色を見てると、何か思い出しそうなんだ」
「何かって?」
「……わからない。でもそれは、とても大切なものだと思う」
その言葉に、少年は首を傾げる。そんな弟の姿に、彼は微笑む。
「少しの間行ってくる」
少年の頭をくしゃくしゃっと撫で、彼は家を後にした。
レンガ造りの家々が立ち並ぶ街中。子連れの親子が歩いていれば、仲睦ましい老夫婦の姿もある。
落ち着いた雰囲気に包まれているこの街が、青年はとても好きだった。辿り着いた十字路の中央にある噴水広場は、彼だけでなく、街の人々にも好かれている場所である。
西に続く道を向けば、街中に沈んでいく夕陽を見ることができる。夕刻にその景色を見ることが、青年にとって幼い頃からの日課だった。
紫紺に染まっていく空を、彼は見上げる。
刹那、脳裏に過ぎる、少女の後姿。白銀の髪が、靡いていた。
「……思い出せない、か」
小さく、彼は嘆息する。沈む陽と、紫紺に染まる空。それを見る度に、脳裏に先ほどの光景が映るのだ。
「一体、君は誰なんだ」
悲しげな翡翠色の瞳と、揺れる白銀の髪。なぜそんな彼女の夢を、何度も見るのだろうか。
紫紺の空を悠々と流れる雲を、青年は呆然と見つめる。
いつも、忘れている〝何か〟を思い出すことができない。そして俺はなぜか、悲しくなる。
ああ、どうせ俺は、今日も〝それ〟を思い出すことができないのだろう。
壮大に広がる空から目を逸らした、その時。
「――カンナ」
透き通った声が、聞こえた。辺りを見渡し、同じ広場にいる人々に目をやるが、彼の名を呼んだ者らしきは姿はない。
「……空耳か」
なんだ、と青年はまた、嘆息する。そして今日はもう帰ろうと、振り返る。
「………」
ブロンドの髪を靡かせ、一人の少女が前からやって来る。それを見て、一歩踏み出された足は止まった。
靡くそのブロンドの髪は陽の光に反射し、美しい。顔は少し俯いていて、見えない。
縮まる二人の距離に、心臓が早鐘を打つ。
( カンナ……、花の名ね )
脳裏に響く、少女の声。頭の中で、何かが解けていく。
( あなたに相応しい名前ね )
笑みを浮かべる、彼女。
「あなたを忘れず」
すれ違い際に囁かれた、その言葉。
刹那、彼の心の奥深くに眠っていたものが、勢いよく弾けた。
( 君の名前を考えよう )
――ああ、そうだ。俺は彼女に、名前を与えた。
( 君を見つけた時、俺は君の名を呼ぶことができるから )
誰かを忘れたくないという思いを持つ、花の名を、彼女に。
「――……」
振り返った青年の瞳に、少女の後姿は映る。
そして彼は呼ぶ。愛しげに、その名を呼ぶ。
「シオン」
そよ風が、ブロンドの髪を靡かす。
静かに振り向いた、小さな体。真っ直ぐと彼を見つめる、翡翠色の瞳。
愛しそうに、彼女は微笑んだ。