君に届くまで~夏空にかけた、夢~
【現役引退】


この四文字は、恐ろしいくらい、おれの現在に衝撃的だった。


初めて目にしたその時は、なんだよ、プロでもないのに大げさだなあと思った。


でも、2回目の時は、違った。


よくよく考えてみろ。


だって、そうだろ。


この四字熟語を残して行った誰かは、人生から野球を下ろすということではないか。


もしかしたら、3年間を全うしての意味で現役引退なのかもしれない。


でも、おれには、どうもそうだとは思えなかったのだ。


もしかしたら、この人は奥歯を噛んで、葛藤しながら、引退したのではないか。


本当は引退なんてしたくもないのに、しなければならなかった理由があったのかもしれないと、そう考え始めると、居た堪れなくなった。


現役引退。


もし。


もしも。


この先、おれが野球を退く日が来るとすれば。


両腕を失う時か、両足を失う時。


あるいは、この命を落とす時じゃないかと思う。


それくらい、おれは野球が好きだ。


野球こそがおれの人生だ、野球を失ったらお終いだ、そう思う。


みんなには大げさだと笑われてしまうのだろうけど。


本気でそう思っていた。


「あああ。いいなあ。修司の筋肉。がっちりしてるわけじゃねえのによ、しなやかで……」


しつこい誉に、冷静な口調を返す。


「下りろ。さもなくば、おれはもう、お前の恋に協力はしない」


誉にはこれが、効果テキメンだ。


網戸から熱帯夜のぬるい風が、ゆるゆると入って来る。


窓辺に干している練習着が夜風に揺れて、柔軟剤のやわらかい匂いが香った。


「ははっ! すぐに下ります!」


どうだ。


あれほどまでにしつこかった誉は、青ガエルが飛び跳ねるようにピヨヨーンと跳んで、


「けど、いいよな、修司は。うらやましいぜ。理想の球児体型してるもんな」


とベースボールマガジンやらH2の単行本やらで散らかり放題の床に下りると、胡坐を組んだ。


「同じ1年とは思えねえよ。菊地先輩とそう変わりねえもんな、修司は」


誉は自身の胸板や二の腕をしきりに気にしながら、でっかい溜息を落とした。
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