君に届くまで~夏空にかけた、夢~
「もう、じゃがいも食えねえよう」


誉が呪文のような寝言を唱えながら、口をもぐもぐ、もにゃもにゃ、動かしていた。


「にんじん……きらい」


がっくし。


ビエラめ。


「この小食球児が!」


あほか、と突っ込んでもう一度外を見ると、


「あれ?」


もう、そこに菊地先輩の姿はなかった。


どこにもなかった。


菊地先輩が殴った柳の木の枝葉がざわざわと夜風に揺れていて、ただ今にもどろりと溶けだしてしまいそうな月が浮かんでいるだけだった。


――平野……あの、あのさ


なぜ、菊地先輩は、泣いていたのだろう。


――おれ


あの後、何を言うつもりだったのだろう。


もう一度、柳の木の周辺をくまなく確認してから、おれはカラカラと網戸を閉めた。


いいか、平野。


運も実力のうちなんだ。


実力がないやつは、運さえ逃す。


始めて桜花の練習に参加した日、そんな事を言って握手を求めて来た、菊地先輩。


待ってたぜ、平野修司、よろしくな、そう言って笑った菊地先輩。


彼は、どんなピンチの時も笑っている人だ。


そんな底抜けに明るい人が、泣いていた。


分かってはいるのだ。


菊地先輩が今、何かを抱え込んでいる事は、前々から分かっていた。


でも、そこに触れたらいけない事も、分かっていた。


だから、誰も、そこに触れようとはしない。


誰も。


それが、野球部内での暗黙の了解でもあった。


でも、おれはこの目ではっきりと確認してしまった。


あの涙こそが、菊地先輩の本心なのではないだろうか。


おれは携帯電話を枕元に放り出して、奇妙な胸騒ぎを抱きしめながらベッドに横になった。


ごろり、壁側に寝返りを打つ。


暗がりの中、その壁の文字が目に飛び込んで来た。


【現役引退】


即刻、目を反らした。


誉の方へ寝返りを打って、何かから逃げるようにきつく目を閉じる。
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