君に届くまで~夏空にかけた、夢~
「いやー。今夜も可愛いねえ、鞠ちゃん」


へらへら笑いながら近づいて来た菊地先輩からは、せっけんの爽やかな香りがぷんぷんした。


「そうだ。明日、俺とデートしない? 時間空けといてよ、鞠ちゃん」


菊地先輩の態度は完全にあからさまで、わざとらしくて、おれは傷ついた。


「映画観に行こうか。それとも、二人きりになれる静かなとことかどう?」


ナンパ詐欺師みたいな事をべらべら言いながら鞠子に詰め寄って行く彼は、おれの方を見ようともしない。


まるで、今ここにおれが存在していないかのようだ。


めちゃくちゃ傷ついた。


「もう! 菊地先輩は軽いです。野球してる先輩は誠実なのにな。チャラチャラ球児です」


きゃらきゃら笑いながら、鞠子はいつものようにおれの体を盾にして背後にひゅるりと身を隠した。


「バリア、バリア! 修司バリアー!」


今日はバリアか。


「それに、明日もきっつーい練習じゃないですか。デートしてる暇なんてありませんよ、来月は秋季大会なんですよ」


ねっ、修司、と鞠子が同意を求めるかのように、おれの練習着をぎゅうっと掴んで引っ張った。


でも、反応する事ができない。


一昨日までのおれなら、そうだそうだ、と簡単に笑う事ができていたのに。


「なーん。お前ら、あっやしいなあ。何よ何よ、ふたりってそういう関係? 何気にいつも一緒だよな、ふたり」


菊地先輩がニタつきながら、親指と小指を引き合わせるジェスチャーをして、鞠子を見つめる。


「今まで、どこで、何してたんだよ。ふたりで」


「もう、菊地先輩は、いつもそんな事ばかり言うんだから。部室に居たんですよ。わたしの仕事、手伝ってもらってたんです」


ねっ、修司、と鞠子がおれを盾にしながらけらけら笑った。


「さあ、どうだか。部室でいちゃこいてたんだろ、どうせ」


ひひひ、とちゃかしながらも菊地先輩のおれに対する態度は、残酷なほどあからさまだった。


むしゃくしゃした。


「もう。菊地先輩と一緒にしないでくださいよ」


ときゃらきゃら笑っておれを盾にする鞠子にも。


「とか言って。お前ら、前から怪しいんだって。妙に仲良いもんなあ」


一切、目を合わせてくれない菊地先輩にもむしゃくしゃした。


そして、夜空を照らす今にも溶けだしそうな半熟卵の黄身色の三日月にさえ。


この蒸し暑さに、特に。


「お前ら、実は付き合ってんだろ!」


何より、全てにむしゃくしゃしている自分に、むしゃくしゃした。


「違うっす!」


一瞬、時が止まったのかもしれなかった。


おれが荒げた大きな声が、一瞬の時を止めたのかもしれなかった。
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