君に届くまで~夏空にかけた、夢~
それを無視して、男が話しかけて来た。


「お兄さん、名前なんてーの?」


「……おれ、っすか?」


「そ」


「あ……平野です」


ぺこ、と会釈をすると、


「俺はねえ、オオタカ。よろしくねー」


聞いてもいないのに自ら名乗り、袴みたいなジーンズのポケットに左手を突っ込んだ。


「大きいに高いって書いて、大高ね」


「……はあ」


大高。


何でこんな男とよろしくしなきゃなんねえんだよ。


と、口には出さず、心の中で言った。


「平野くん。これ、返しに来たんだけど」


大高がポケットから出したのは、野球ボールだった。


「これ、御宅の練習球だよ」


ほらね、と大高がフェンスの網目にそれを押し付ける。


「……あっ」


確かに、うちの練習球に間違いなかった。


うちの練習球には、一球一球にシルシがあるのだ。


真紅の縫い目の横に、桜の花が刺繍されている。


「これさあ、もう要らなくなったから返すね」


「え? あの……?」


何だ。


要らなくなった、とか、返す、だとか。


この大高という男は一体、何なんだ。


「あ、じゃあ、今そっちに行くんで、ちょっとだけ待ってて下さい」


と、駆け出そうとした時だ。


大高がおれを呼び止めた。


「いいよ、来なくても。そこに落とすから」


次の瞬間、おれは小さく、でも確かに声を漏らした。


えっ。


「行くよー」


と大高が一歩下がって、大きく、正確なフォームで振りかぶったのだ。
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