エスメラルダ
 外交も何もかも、泣いている赤ん坊には敵わない。命名の儀の御披露目の為の祝賀使節としてやって来たハイダーシュ夫妻であったが、主役の赤子を見たのは一瞬の事であった。
 エスメラルダは無礼を承知で、赤子を抱いたまま、その広間から退出したのである。
 二人が祝福の言葉をかける暇も無かった。エスメラルダはハイダーシュもレイリエも同じ位嫌いだった。 大事な大事なレーシアーナの赤子に、あの二人が吐く息を吸わせるのも嫌だった。
 かつかつと踵の音を鳴らし、そしてそれよりはるかに賑やかな赤子の泣き声を響かせ、エスメラルダは歩く。レーシアーナの寝室に急ぐ。
 レーシアーナには一人部屋があてがわれていた。ブランシールとは別の寝室を。
 それは別に奇怪なことではなかった。
 アユリカナも子供が乳離れするまではレンドルと部屋を別にしていたのだ。
 身体が回復してからは同衾する事もあったであろう。でないとアユリカナの子供達の年の差の説明がつかない。だが、情事の後は別室に戻ったそうだ。
 レーシアーナはアユリカナと同じで乳母を雇うことに反対した。
 酷い産褥熱で苦しむレーシアーナに皆が乳母を雇うべきだと言い、事実、若くて乳の出が良く、家柄も正しければ気立ての良い何人かの貴族の夫人が候補としてあげられていたのである。
 だけれども、レーシアーナは断固として拒否した。赤子が泣く度に痛い程に乳房が張り白い乳がほとばしる。それが自然な事なのだ。女の身体は子供に乳を与えるように作られているのだ。
 アユリカナにはその気持ちが痛い程解る気がした。何故なら彼女も乳母を拒絶し、三人の子を自らの乳で育てたのだから。
 産褥熱が引かないという事を想定していなかったので、皆は最初、レーシアーナの好きなようにやらせてやろうと考えていた。熱が引かず周囲は慌てたが、しかし、母となったレーシアーナは強かった。
 結局皆はレーシアーナの望みどおりに動いたのである。
 こんこん、と、エスメラルダは扉を叩いた。そして返事を待たずに寝室を暴く。今のレーシアーナに扉の外まで聞こえる声で返事をする事など不可能であると解っていたからであった。
「……エスメラルダ……坊やを……」
 レーシアーナは必死で起き上がろうとする。
 エスメラルダは泣く子供をとりあえずベッドに横たわらせ、レーシアーナを抱き起こした。背中にクッションをあてがって起き上がれるようにする。
 半身を起こしたレーシアーナの身体は汗ばんでじっとりとしていた。
「イエルテは? リリアナは? サマンサは? 酷いわ。貴女がこんな状態なのに側に居ないなんて」
「癇に障るから……退出を命じたの。他人、ですもの。所詮。それより坊やを」
 エスメラルダは溜息をついた。
 そしてルジュアインをレーシアーナに抱かせてやる。
 レーシアーナは白い乳房を露わにしてルジュアインに乳首を含ませた。
「痛っ」
 レーシアーナは小さく声を上げる。
「どうしたの!?」
 狼狽の声を上げたエスメラルダにレーシアーナは弱々しく笑って見せた。
「噛まれたの。歯がないのに何て力かしらね。余程お腹が空いて腹が……立っていたのだと思うわ。ルジュアインは。廊下から泣き声が聞こえたもの。胸が張って痛かった」
「ご免なさい。連れて来るのが遅くなって」
 エスメラルダはすまない気持ちで一杯だった。レーシアーナから子供の事は頼むといわれていたのに。
「何か……あったの?」
「……レイリエがこの国に戻ってきたわ。夫と一緒に」
 レーシアーナの問いに一瞬考えてから本当の事を言った。下手に隠すのは良くないと考えたのだ。
 レーシアーナと出会って約一年。
 たった一年なのにレーシアーナはエスメラルダの一番の理解者になった。
 だから、時々困った事に、嘘が吐けない。
 フランヴェルジュになら強がれる。ごまかすことも出来る。
 だけれども、レーシアーナには出来ない。
「そう、レイリエが」
 答えながら、レーシアーナは乳房に顔を埋める我が子に視線を落とした。
< 122 / 185 >

この作品をシェア

pagetop