エスメラルダ
 マーデュリシィはせわしなく頭を働かせていた。レイリエを見て何故か不安になったのだ。背筋が総毛立つような不快感。
 御披露目も終ったというのに、その場から使節達も退場しようとはしない。その場に王たるフランヴェルジュが居るからだ。
 だがフランヴェルジュも好きでいるのではない。ファトナムールの王太子夫妻が入室してすぐに御開きには出来ない。それはまだ戦が確定していない隣国にとって余りに失礼に当たるであろう。
 そして届けられた玩具の造りの荒さに溜息を隠しながらもフランヴェルジュは笑いを絶やさず皆の相手をする。正直いつになったら御開きに出来るのであろうかという思いを抱えながら。
 マーデュリシィは唇を噛んだ。
 命名の儀の為に神殿から離れた途端、このような出来事に遭うとは思いもしなかった。
 レイリエは、マーデュリシィがこの世で最も憎む女であった。
 アシュレの妹。
 思い出すも呪わしい記憶が頭の中を逆流する。あの女はアシュレにとって悪鬼でしかなかった。それでもアシュレが放り出さなかったのは男の優柔不断というべきか、それとも。
 マーデュリシィは知っている。アシュレの死の原因を作ったのがレイリエである事を。
 知っていても口外できないのがどれ程辛かったのか覚えている。
 世俗から離れている事になっているマーデュリシィだが、その情報網は複雑で繊細な蜘蛛の巣のように張られていた。
 代々の大祭司が守ってきたメルローアの平和。勿論、マーデュリシィはファトナムールの陰謀を知っている。だが、マーデュリシィもエスメラルダと同様、ここ数日、己の情報網とコンタクトを取っていなかった。
 華燭の典の準備と、ファトナムールへの呪詛でマーデュリシィは手一杯だったのである。
 呪詛といっても簡単なものだ。
 昨夜完成したその呪は大きな『嵐』となってファトナムールの大地に消えない傷を刻み込んでいる事であろう。
 神に仕えるものであるマーデュリシィには人を殺す事は許されていない。だから『嵐』は土砂崩れを起こし、洪水となり道路を川に変えても誰も殺してはいない。それでも国民はパニックに陥るであろう。暫くは国を立て直す時間を必要とするはずだ。
 ただ、マーデュリシィには時間が欲しかったのだ。フランヴェルジュとエスメラルダの華燭の典が滞りなく済むように。
 マーデュリシィにとってエスメラルダは可愛い娘だった。憎みたいと思っていた。だが、アシュレが愛した娘ということでマーデュリシィもエスメラルダを愛そうとした。そして知り合ったエスメラルダは愛するに相応しく。
 その時、ふと見やった国王の顔に疲れが浮かんでいるのを見て、マーデュリシィは自分が何とかすべきだと思った。大祭司として。
 だが、何が出来よう……?
 フランヴェルジュは欠伸をかみ殺した。
 昨日も遅くまでブランシールと策を練っていたのだ。今朝、命名の儀の為に現れたマーデュリシィに『嵐』の事を聞き、どれ程ほっとしたか知れない。結婚し、エスメラルダを王妃とするに充分な時間が与えられた事を若き国王は神とマーデュリシィに深く感謝した。
 だが、その『嵐』の事を伝えて追い払ってしまうわけにも行かないこの二人。
 戦が始まっていない今、最高の貴賓である彼らを、フランヴェルジュは本来なら夜会でも開いてもてなさなくてはならない。だが、今は華燭の典の準備で皆が必死な時である。
 厄介な、と、フランヴェルジュは思った。
 私室へ呼んで杯でも傾けるか。その間にファトナムールの情勢が聞けるかもしれない。
「ファトナムール王太子殿下。お父上には健やかにてあらせられるか?」
 他愛もない話の中でフランヴェルジュは問う。ハイダーシュは瞳を眇めながら頷いた。
 ハイダーシュに敵対視されているのをフランヴェルジュは知っている。それはハイダーシュがレイリエを手に入れた時にレイリエが聞かせた言葉の所為だ。フランヴェルジュがレイリエの恋を認めず、その為に国を捨てる事になったというその言葉の為だ。
 そしてまた男として。いずれ国王となるものとして。
 メルローアという大国を治め、民草からも慕われる国王。自分より年下の若い国王とハイダーシュは、しょっちゅう比較されてきたのだ。ハイダーシュが幾ら懸命に物事にあったっても、いつもその前をフランヴェルジュは走っていた。ハイダーシュにとってフランヴェルジュは目の上のたんこぶとしか言いようが無かったのである。
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