エスメラルダ
第十八章・記憶に刻む
「エスメラルダ様、失礼致します」
 そういって、マーグはエスメラルダの衣装に手をかけた。
 リボンを解き、ボタンを外し、素晴らしい手際でその衣服を脱がせるマーグの感慨は、とても深い。
 エスメラルダが十二の時よりずっと見守り続けていた。
 エスメラルダをアシュレ・ルーン・ランカスターが緋蝶城に迎え入れたその時に、マーグはアシュレのものではなくエスメラルダのものになった。
 それはアシュレが直々に命じたからという理由だけではない。
 少女のくせに、痛々しいまでに張り詰めた幼いエスメラルダに、胸の中からふつふつと湧き上がる愛を覚えたからだ。
 そう、マーグは命令ではなく愛ゆえにエスメラルダに仕えた。
 そのエスメラルダが花嫁になる。
 日付が変わると、四月十日。
 メルローアの国王が花嫁を得る、華燭の典が行われる日が来る。
 政略の為ではなく、ただ恋の情熱と、それをも上回る愛の為に選ばれたのが、マーグの大切なエスメラルダ。
 なんという喜ばしい事であろう。
 マーグは国王という肩書きをもつ男がエスメラルダを求めたから、『喜ばしい』と感じているのではなかった。
 フランヴェルジュがエスメラルダを真剣に愛するが故に、そしてエスメラルダがその愛に己の心の全て、もてる愛の全てで応えようとするが故に、マーグは『喜ばしい』と感じているのである。
 思えばアシュレは、エスメラルダに多大な影響を与えながらも、エスメラルダの愛を得る事が出来なかった。
 アシュレの愛が足りなかったのではなく、エスメラルダが親愛と敬愛以外の愛を知るには、アシュレでは駄目だったのだ。
 フランヴェルジュでなくては、駄目だったのだ。
「マーグ……、大好きよ」
 エスメラルダは囁くように言うと、衣服を脱がし終えた忠実な侍女の手を取った。
 マーグの下に何人もの侍女がついている。
 だからマーグは本来なら、その沢山の侍女達の監督だけをしておれば良い立場である。
 それでも、エスメラルダの衣服を脱がせ髪を梳るという役目を、マーグは誰にも譲らなかった。
 その、荒れてはいないが無骨で大きな手を、エスメラルダは愛おしむように両手で挟む。
「お母様のように、愛しているわ」
「勿体無いお言葉にございます……!!」
 マーグの膝は崩れ折れた。そのまま、彼女はエスメラルダの正面に座り込む。
 しくしくと泣くマーグに、エスメラルダは胸が熱くなった。
 こんなにも愛されている。
「わたくしは、いつまでもお前のエスメラルダよ。フランヴェルジュ様の妻になっても、それは変わらないわ」
 エスメラルダの涙腺が緩んだ。
 だが、泣かない。
 今、時計は二十二時を指している。
 日付が変わるまで、後二時間しかなかった。
 ここは神殿の一室、『白華の間』。
 そこで、人の妻となる前の最後の夜をエスメラルダは迎えていた。
 日付けが変わったら、エスメラルダは霊廟に赴き、メルローアの王族に連なる事を、偉大なる王達に報告せねばならない。血を継いで行く事を、誓わなければならない。
 それが国王の正妃のしきたりなのだという。
 尤も、メルローアの王は生涯ただ一人しか妻を娶らぬがさだめなのだが。
 だが、それらは勿論、身を清めてからの事。
 隣の浴室には湯が既に張ってある。
 鐘の音が聞こえた。
 その音に、涙をこぼしていたマーグは慌てて立ち上がると袖で目尻を拭った。
 そして、エスメラルダを浴室へ導き、巫女達に委ねる。
 潔斎の手を貸すのは、俗世のものには務まらぬ役目であるが故に、マーグは、痛恨の想いで最愛の少女の手を離す。
 その想いが解るエスメラルダは、唇を噛みながら、巫女達の手を取り、誘われ、浴槽に身体を浸した。
 霊山ホトトルの水を沸かして、その中にホトトルの麓の樹海で取れる香草と花を一杯に入れた大理石の浴槽は、少し、エスメラルダの神経を昂ぶらせる。
 これからの事を考えると、マーグの温かい手の中に戻って行きたい気がしないでもない。
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