エスメラルダ
 だが、やはり、フランヴェルジュの花嫁になりたいと思う。
 溜息を吐きながら、エスメラルダは浴槽に浮かんだ花を気紛れに手ですくう。その花の香りで頭が朦朧としそうだった。
 浸かってまもなくだというのに、汗の量がとてつもない。控えている巫女が、手巾でエスメラルダの顔を拭くが、それでもどんどんしたたっていく。
「この御湯は老廃物の排出を促します」
 エスメラルダにとってはどうでもいい事だ。
 身体を二回洗われ、髪を三度洗われた後、体中を塩で清め、香油を擦りこまれた。
 香油のボトルは恐ろしく小さい。
 子供の手でも掴めるその香油の容器はプラチナとエメラルドの細工。だが、この容器よりも香油の方が価値が有るという。
 馬鹿馬鹿しいと思うが、良い匂いだった。
 この日の為にフランヴェルジュが調合させた香りだという。花嫁に香りを贈る、それはメルローア王家の長男の慣例なのだそうだ。
 香油は、甘いのにくどくなく、さっぱりした香りのものだった。だけれども、何故か記憶に刻み込まれるような匂い。
 エスメラルダの為だけに作られた香油を、巫女達の指や掌がエスメラルダの裸の肌に触れて、擦り込む。
 巫女達は何人もいて、エスメラルダは途中で数える事を放棄したのだが、皆、マーグほどではないが手際が良かった。
 だからエスメラルダは全て任せ、取り留めのない思考に沈んで行く。
 うつぶせに眠っているエスメラルダの髪も梳られ、たっぷりと香油が擦りこまれている。
 それは身体に擦りこまれた香りと同じ質のものでありながら、少し淡く作られている。
 緊張も極限に達しようとしている花嫁が、自分の香油の匂いに酔ってしまったら大変だからである。
 もし酔ってしまって倒れたら、いや、倒れずとも常に顔色が悪かったりしたら、陰で何を言われるか解らない。
 それはエスメラルダの恥であるだけでなく、エスメラルダを選んだフランヴェルジュの恥ともなる。
 しかし、エスメラルダの顔色は既に悪い。
 香油で酔ったわけではなかった。そして、緊張の為でもなかった。
 倒れる事を思い浮かべてしまった時、ついうっかり、式典の参列者の事を考えてしまったが為である。
 全ての人間がエスメラルダを祝うわけでもなければ、エスメラルダ自身が『祝って欲しくない』と思う人間もいる。
 その人間、その夫婦を思い出してしまったのだ。正直、かなり気分が重い。
 今夜、エスメラルダが『白華の間』に足を運ぶ直前という常識外れの時間に、常識を知らない男がやってきて、明日の式に参列すると宣言した。
 国が荒れているというのに、妻に会いたい一心で、ファトナムールからはるばると、ハイダーシュはメルローアの王城を訪れたのだ。
 愚昧なる王太子だとエスメラルダは思う。
 今はレイリエと共に神殿にいる筈である。
 だが、今どんな状態になっているのかはカスラの一族が神殿に潜り込めない以上、エスメラルダに知る術はない。
「エスメラルダ様、御召しかえを」
 巫女の中の一人が、声をかける。
「ああ、あ、そうね」
 エスメラルダは不意に現実に戻されて混乱してしまった。
 ああ、だけれどもたとえレイリエでも、式の最中に何かする事は出来ないでしょう。
 大体真っ向から何か仕掛けて、戦争を起したとして、ファトナムールは必ず負ける。
 ではファトナムールが勝つ、もしくはメルローアに多大な恩を売るとすれば?
 ふと思いついた考えを、エスメラルダは必死で頭の中から振り払おうとする。
 その合間にも、エスメラルダの身体に衣服が着せ掛けられる。
 黒いドレス。飾りも何もついていない、木綿のドレス、いや、ワンピースといった方が正しいかもしれない。
 それを身に纏い、霊廟に赴き、零時の鐘を待つ。国中の鐘が鳴る、その時を待つ。
 鐘の音が響いた。
 エスメラルダは靴を脱ぐ。それがしきたり。
 尊きあなたのまします所に穢れなど持ち込みません。それを主張する為に。
 霊廟の入り口の所で、既にアユリカナが待っていた。導き手は、王の母と決まっている。
「わたくしが案内しましょう、娘」
 にっこりとアユリカナは笑う。
 その足も素足であり、着ている物もエスメラルダと大差なかったが不思議な威厳がある。
「さぁ。過去の偉大な王達に挨拶をしに行きましょうね」
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