エスメラルダ
 ただ一度きり?
 覚えていられるはずがない。覚えていられるはずなど……。
「大丈夫。この口伝は口にする事はただの一度しか許されていないけれども、特別な予言と同じもの。貴女が必要だと思った時にこの物語は夢を訪れる。その為に、女は生き残らなくてはならないのです。男が馬鹿をして、道を踏み誤った時、まごうことなく手綱を取る事叶うように。男は本当に可愛いお馬鹿さんで、それはどの時代の王も、賢君と呼ばれた王ですらも、一緒なのです。実際始祖王バルザは、強く、賢く、野心家であり、人々は畏敬の念で従っていたそうですが、最愛の王妃には決して逆らえなかったそうです。周囲は王妃ディケナがバルザ王に従順に従っているように見えたそうですがね」
 そういうと、アユリカナはバルザの遺骸を見詰めた。
 しわくちゃの老人は優しそうな顔で眠っている。彼は一体どれだけの野心を秘め、メルローアと民を守る為に闘争に明け暮れたのだろう?
 果てない戦いの中での安らぎは、ディケナだけであったと伝えられる。
 実際、一国を築き上げ、更に小国他民族を併呑する事に貪欲で各国の王を震え上がらせた始祖王バルザは、ディケナを亡くしてから戦いを捨てた。
 そして亡きディケナの為に、歌を作り、絵を描き、木や石で像を彫った。
 それらは全て一級の芸術品で、国宝として伝えられている。
 もしかすれば、バルザにメルローアという国を作らせたのはディケナの野心だったのかもしれなかった。
 少なくともアユリカナはそう感じる事が多かった。
 ディケナが全ての手綱を握り機構を作らせたのであれば、女性にのみ伝えられるものが多い事が理解できる気がするのだ。
「御優しそうな方に見えますわ、バルザ様。いつかフランヴェルジュ様がお話くださいました。とても優しいお顔をなさっていると。本当に、その通り」
 エスメラルダは、ただ眠っているように見えるバルザに触れてみたいと思った。
 それはなんとなく憚られる事であったが、しわくちゃの老人は、本当に優しげな顔をしている。そのバルザを見ているエスメラルダの顔もまた自然、優しくなっていた。
 その表情を見て、アユリカナは言った。
「話はこれで本当におしまい。もう夜が明けるのではないかしら? 婚礼衣装に着替える時間も考えて、『血杯の儀』を行いましょう」
「『血杯の儀』?」
 エスメラルダが聞き返す。
 頷くと、アユリカナは真紅の生地に金糸の縫い取りがある錦を纏い、宝石と金で飾られた始祖王の枕元に手を伸ばした。
 そして手にしたのは、ごくごく普通の杯と、金と宝石細工の短剣。杯が却って不自然だった。豪奢な宝物の並ぶ中にはあまりに一般的過ぎて、不釣合い。
 その杯で、短剣で何を……?
「アユリカナ様……?」
 エスメラルダは戸惑う。
 こともあろうに、始祖王の宝に手をつけて良いのだろうか?
 だが、アユリカナはにっこり笑うと、バルザの遺骸の足元に跪けと言う。
 エスメラルダは訳も解らぬまま従った。
 それをみて満足気にアユリカナは頷くと、自身も跪き、短剣を掲げる。
「このメルローアを支えてきた代々の王達よ、御身の器ある場所での儀式、天上より御照覧あれ!」
 言うなり、アユリカナはその短剣を鞘から引き抜く!
 鞘走りの音が遠くに聞こえた気が、エスメラルダには、した。
 まるで何もかもがスローモーション。
 アユリカナの腕に赤が踊る。
 彼女の前におかれた杯にその赤が滴る。
「アユリカナ様!?」
 思わず大きな声を上げ、駆け寄ってきたエスメラルダに、アユリカナは笑って見せた。
「血を受け継ぐの。何もせずに夢が貴女を訪うとでも思った? 違うのよ、エスメラルダ。口伝は血の記憶。気持ち悪いかもしれないけれども、たった一口でいいから口を付けて。わたくしの役目はそれで終る。貴女という後継を見出した事によって終るの」
 エスメラルダはアユリカナに杯を向けられ、頭が真白になった。
 魔法の力が、この杯には宿っているようだった。
 ただの平凡な杯だったはずが、バルザを飾るどの宝物よりも美しいものに変わっている。
 黄金の杯。これも試練か?
 ごくり、と、エスメラルダは唾を飲んだ。
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