エスメラルダ
◆◆◆
時間を少し遡ろう。
「兄上、余りお召しにならないのですね」
ブランシールが不思議そうにそう問うた。
独身最後の夜、その夜を共に過ごすのにフランヴェルジュが選んだのはブランシールだった。自室で寛ぎ、酒をかたむけ。
エスメラルダが霊廟に赴く事は知っていた。
が、フランヴェルジュは『血杯の儀』の事は知らない。
それは国母と王妃、もしくは王太子の妃のみが知る秘密なのである。
だから、フランヴェルジュはただ訪れる華燭の典の事だけを考えている。
「? ああ……、そうだな」
一拍以上遅れて、フランヴェルジュは生返事を返す。彼の目は時計を見つめていた。
かち、かち。
秒針の音が響く。
かち、かち。
そして、鐘が鳴った。
それは凄まじい音。
国中の鐘が鳴っているはずだった。
どんな小さな神殿の鐘も、今日だけは盛大に鳴らされる。
「来た……」
「おめでとうございます。兄上」
ブランシールは複雑な気持ちを抱えながら、兄に祝福の言葉を述べた。
今日、何が起きるか、それが誰によって起こされるか、もし兄上がお知りになったら……僕は……。
それでも、兄と二人きりの時間というのは嬉しくて、葛藤が顔に出ないようにブランシールはごくごくとワインを口にする。水を飲むように、ごくごくと。
酔ってでもいなければ、やっていられない。
だというのに。
「有難う、ブランシール」
フランヴェルジュは、やっと、笑った。
「お前の祝いの言葉が、一番に聞きたかったんだ。一番に、お前に祝福されたかった」
その言葉は甘い毒。
かつてブランシールが溺れた水煙草よりも危険な毒。
身体ではなく心を蝕む喜びと───罪悪感。
僕は……!! 兄上!!
「僕も、兄上に祝いの言葉を述べる最初の人間になりたかったから、とても嬉しいです」
内心を微塵も見せずに、ブランシールは笑って見せた。
兄の好きな笑顔。
自分の愛する兄の好きな笑顔。
「お前はやはり最高の弟だ」
がたん、とフランヴェルジュは立ち上がった。そして、テーブルを挟んで向かい側に座る弟を強引に抱き締める。
その抱擁は温かかった。
ブランシールの胸が早鐘を打つ。
駄目だ、駄目です!! 兄上、僕はそんな事をしていただく価値のない人間なのです!!
レイリエの甘言に乗った事が、呪わしかった。だけれども、もう引けないのだ。
だから、抱き締められたこのまま、死んでしまいたい。
「これからも、頼むぞ。俺を助けてくれよ。俺の側にいてくれよ。正直、お前がいなければ俺は何をどうして良いのかの区別もつかん人間なのだからな。勅命だ。俺より先に死ぬなよ」
「……死、などと縁起でもない。今日は、善き日、ではございませんか」
高鳴る胸の鼓動を聞かれたらどうしようと思いつつ、ブランシールは言う。
兄に抱かれている喜びか。
罪の戦きか。
恐らくは、その両方が、心臓を暴走させている。
「兄上、苦しいです。それより、乾杯しましょう」
ブランシールの言葉に、フランヴェルジュはようやっと弟から腕を離した。そして身を引き、再び椅子に腰掛ける。
「悪いな、興奮してしまったんだ。色々とな。結婚すれば世界が変わりそうだと思わないか? 俺をおいて先に結婚した弟殿に是非聞きたいのだが、やはり、人生は変わるか?」
早口でフランヴェルジュはそうまくし立てると、さっきまでろくに口を付けなかったワインを飲み干して、新しく注いだ。
「受け止め方次第でしょうね。変わるといえば変わりますが、変わらないといえば変わらないですよ」
ブランシールはそう言うと、さっき飲み干して空になったグラスに、兄がテーブルに置いたワインボトルからワインを注いだ。
「兄上の幸せに」