エスメラルダ
 それにはレーノックスの理性は気づかない。気づきたくないから気づかない。
 だが彼の本能は気づいていて、より一層彼女への憎悪を募らせる。
 部屋にいたのは今日の花嫁であるエスメラルダと、彼女の侍女マーグ、そして巫女達であった。
 エスメラルダは、純白の衣装を身に付けていた。
 花嫁衣裳が純白であるのは、スゥ大陸では何処も同じである。
 しかしメルローアの王妃となる娘の花嫁衣裳は、少し変わっている。宝飾品は真珠のみなのだ。だが、その真珠の豪奢さときたら!!
 メルローアの王妃、王太子妃の婚姻に使われる真珠は、その量、質ともに恐るべきもので一国が買えるとさえ言われている。
 ベールの影から、エスメラルダは薄く微笑んだ。
「宰相閣下、わざわざの奏上、有難うございます」
 果実のように熟れた唇が言葉を紡ぐ。たっぷりと蜜が塗られた唇の艶かしさは、清楚な花嫁姿を良い意味で裏切っている。
 薔薇色の頬に影を落としていた、長い睫毛が重たげに持ち上げられ、どんな宝石よりも鮮やかな緑の瞳が、きらきらと輝く。
「文官の皆様も、本日の為にお集まり下さり、有難うございます」
 惚けたようにエスメラルダを見ていた文官達ははっと居住まいを正した。
 彼らは皆高位の文官であり国王とも口をきく。
 だが、王妃となる花嫁が、婚儀の朝に文官達に礼を述べたと言う例は、たったの二件しかなかった。
 始祖王バルザの妃ディケナと、先代の王レンドルの妃アユリカナ。
 その他の花嫁達は緊張ゆえに、もしくは傲慢さゆえに、わざわざしきたりに過ぎぬ文官達の礼に言葉を返す事はしなかったのである。
 レーノックス以外の文官達は揃って思った。
 彼女こそこの国の玉座に相応しい、と。
 エスメラルダには醜聞があった。
 しかしそれがなんであろう?
 マーグも巫女達も一言も発せず、花嫁と文官達を交互に見ていた。
 花嫁は立ち上がる。
 そして、一歩、前に出た。
 ふわりと、ヴェールが揺れる。額の上に一つだけ残した小さなカールがはねる。
 白いキッドの長手袋に包まれた手が優雅に動いた。
 その左手は彼女の豊かな胸元に当てられた。
 ローブデコルテのドレスから覗く肌は乳の様に白く、蜘蛛の巣のように繊細に編まれた真珠のネックレスが、青白く見えてしまう。
 その右手はドレスのスカートを持ち上げた。
 花嫁衣裳は上から見たときにまるで薔薇が花開いたかのように見えるよう、スカート部分が何段も重ねられており、その縁取りに小粒真珠があしらわれている。
 真珠の縫い取りだけでなく、極上の絹で作られているが故に重いドレスは、しかしその重みを感じさせないほど自然に持ち上げられ、そして花嫁は腰を折った。
 それは最高の礼。
「皆様、今日よりわたくしを御導き下さいますよう、至らぬ小娘ですがご鞭撻のほど宜しくお願い致します」
「お顔をお上げ下さい!!」
「エスメラルダ様!!」
 レーノックスもその他の文官達も慌てて声を上げた。
「「エスメラルダ様!!」」
 エスメラルダはゆっくりと頭を上げる。
 唇は完璧な微笑を湛えたまま。
「生涯の忠誠を!」
 一人の文官が叫ぶと、レーノックスの背後からまろびでて、エスメラルダの影が落ちる床に口を付けた。
 それは衝動的なもの。
 だが、それ故に抑えられないもの。
 一人、また一人と、文官達が続く。
 そして気づけばレーノックス以外の誰もが、床に額を擦りつけ、花嫁の影に口を付けた。
 レーノックスは恐ろしいと思う。
 フランヴェルジュ様と同じだ。
 それが見抜けるほどに、レーノックスは頭が良い。
 天性のカリスマ、そしてそれだけに頼らぬ謙虚な態度。
 それは決して媚から出ているものではない。
 媚から出ているものならば人々は影で嘲笑しながら頭を垂れるだけに過ぎないであろう。
 エスメラルダは、何時の間にか君臨している。それなのに、あくまで謙虚である姿勢。
『あの女は恐ろしい女よ』
 頭の中で響くレイリエの声を聞きながら、レーノックスは花嫁の右手の甲に口づけた。
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