エスメラルダ
第二十一章・彼女の眠り
その日のフランヴェルジュは大変機嫌がよろしくなかった。
エスメラルダはレーシアーナの遺体を安置してあるところから一歩も動こうとはせず、食事もそこで摂る事になった。
あのなんとも言えない結婚式から二日。
エスメラルダはそこから動こうとはしない。
そしてもう一人悩みのタネである人物がいた。
ブランシールである。
ブランシールが結婚してからも、四人で───フランヴェルジュとエスメラルダ、ブランシールとレーシアーナが揃って食事を摂っていたのに、一人で食べる食事は味気ない。
せめて、少ない時間をひねり出して、妻を亡くしたばかりのブランシールを慰めたいと思い、食事を彼の部屋に運ばせ赴いてみるとブランシールはただ、座っているのみだった。
フランヴェルジュは惚けたようにレーシアーナの寝間着を抱くブランシールを見ているのが辛かった。
だが、ブランシールからその寝間着を取り上げ、己を囲む全てのものを見やれというのは酷である気がする。
だがそれならどうしたら良いのだろう?
ブランシールは食事にも手をつけていない。
豊かな銀髪はもつれ、頬は涙の跡でかさかさだった。
今泣いていないのは決して傷が癒えたからではなく、もう泣く気力もないのであろうとフランヴェルジュは推測する。或いは泣きつくして涙が枯れたか。
がさがさの唇は何も音を紡がなかった。
御典医は心の病だと、そう言った。
ショックで心が病んでしまったのだと。
治せぬのなら任を解くと言ってやったがどれだけの効果があることやら。
ブランシールの部屋には、今は彼とフランヴェルジュしかいない。
侍女たちは下がらせてある。
「可哀想にな、ブランシール」
フランヴェルジュはそういって、まだ湯気を放つ白いパンにジャムを塗った。
そしてそれを千切ってブランシールの口の前に持っていくと、ブランシールはようやく口をあける。
咀嚼して飲み込む弟を見て、フランヴェルジュは胸が痛くなる。まるで雛のように庇護を必要とするもの。
本当は食事の為に取った時間はそう多くない。とれなかったのだ。レーシアーナの国葬や、今メルローアにいる貴賓達への待遇、そして『事故』の原因を探る事、そして日常の政務、それら全てがフランヴェルジュの肩の上に乗っていた。
フランヴェルジュは決して愚鈍な王ではない。だが今まで如何にブランシールはフランヴェルジュのサポートをしてきただろう。
ブランシールのサポートが望めぬ今、フランヴェルジュは本当に忙しかった。
しかし、兄としてこの状態の弟をほうっておく事が出来るだろうか?
サラダをフォークでつつき、牛乳を飲ませる。ゆで卵に塩をふり口元に運ぶ。新しいパンにベーコンを挟み兄は弟に食べさせる。
結局、フランヴェルジュは一口も食べる事が出来なかった。
時間を大幅に超過しても、ブランシールに人並みに食べさせる事がやっとだったのだ。
「ブランシール……」
食事を食べさせ終え、フランヴェルジュは立ち上がった。その彼を、ブランシールは青い目で追う。
「国葬の話し合い、今日が大詰めだ。時間はあまりない。少しでも……元気になってくれ」
夫が正気を手放したままでは、如何に祈りを捧げようとも、あの優しいレーシアーナが主の側であれども幸せで居られるはずがない。
「ブランシール、レーシアーナが……迷うぞ」
聞こえているのだろうか、というようにフランヴェルジュは腰をかがめると、ブランシールと目線をあわせ、その目を見詰めた。
びくん、と、ブランシールの体が跳ねた。
青い瞳が恐怖に染まる。
フランヴェルジュは胸が痛むのを感じた。
心とはどうすれば癒えるのだろう?
風が開け放した窓から忍び入りカーテンを揺らす。春の香が、皮肉なくらい瑞々しい、そんな春の日。だがブランシールの瞳は氷だ。
テーブルを退けた。
そしてブランシールのすぐ前に立つと、おもむろに座ったままの弟を抱き締める。
何もかもが目茶苦茶で、もうおかしくなりそうだった。それでも、温もりはそこにある。
「……では、行ってくる」
フランヴェルジュは腕を放し、弟を解放した。そして踵を返す。
ブランシールがその背に投げかけた呟きを、懺悔を、フランヴェルジュは聞く事がなかった。
エスメラルダはレーシアーナの遺体を安置してあるところから一歩も動こうとはせず、食事もそこで摂る事になった。
あのなんとも言えない結婚式から二日。
エスメラルダはそこから動こうとはしない。
そしてもう一人悩みのタネである人物がいた。
ブランシールである。
ブランシールが結婚してからも、四人で───フランヴェルジュとエスメラルダ、ブランシールとレーシアーナが揃って食事を摂っていたのに、一人で食べる食事は味気ない。
せめて、少ない時間をひねり出して、妻を亡くしたばかりのブランシールを慰めたいと思い、食事を彼の部屋に運ばせ赴いてみるとブランシールはただ、座っているのみだった。
フランヴェルジュは惚けたようにレーシアーナの寝間着を抱くブランシールを見ているのが辛かった。
だが、ブランシールからその寝間着を取り上げ、己を囲む全てのものを見やれというのは酷である気がする。
だがそれならどうしたら良いのだろう?
ブランシールは食事にも手をつけていない。
豊かな銀髪はもつれ、頬は涙の跡でかさかさだった。
今泣いていないのは決して傷が癒えたからではなく、もう泣く気力もないのであろうとフランヴェルジュは推測する。或いは泣きつくして涙が枯れたか。
がさがさの唇は何も音を紡がなかった。
御典医は心の病だと、そう言った。
ショックで心が病んでしまったのだと。
治せぬのなら任を解くと言ってやったがどれだけの効果があることやら。
ブランシールの部屋には、今は彼とフランヴェルジュしかいない。
侍女たちは下がらせてある。
「可哀想にな、ブランシール」
フランヴェルジュはそういって、まだ湯気を放つ白いパンにジャムを塗った。
そしてそれを千切ってブランシールの口の前に持っていくと、ブランシールはようやく口をあける。
咀嚼して飲み込む弟を見て、フランヴェルジュは胸が痛くなる。まるで雛のように庇護を必要とするもの。
本当は食事の為に取った時間はそう多くない。とれなかったのだ。レーシアーナの国葬や、今メルローアにいる貴賓達への待遇、そして『事故』の原因を探る事、そして日常の政務、それら全てがフランヴェルジュの肩の上に乗っていた。
フランヴェルジュは決して愚鈍な王ではない。だが今まで如何にブランシールはフランヴェルジュのサポートをしてきただろう。
ブランシールのサポートが望めぬ今、フランヴェルジュは本当に忙しかった。
しかし、兄としてこの状態の弟をほうっておく事が出来るだろうか?
サラダをフォークでつつき、牛乳を飲ませる。ゆで卵に塩をふり口元に運ぶ。新しいパンにベーコンを挟み兄は弟に食べさせる。
結局、フランヴェルジュは一口も食べる事が出来なかった。
時間を大幅に超過しても、ブランシールに人並みに食べさせる事がやっとだったのだ。
「ブランシール……」
食事を食べさせ終え、フランヴェルジュは立ち上がった。その彼を、ブランシールは青い目で追う。
「国葬の話し合い、今日が大詰めだ。時間はあまりない。少しでも……元気になってくれ」
夫が正気を手放したままでは、如何に祈りを捧げようとも、あの優しいレーシアーナが主の側であれども幸せで居られるはずがない。
「ブランシール、レーシアーナが……迷うぞ」
聞こえているのだろうか、というようにフランヴェルジュは腰をかがめると、ブランシールと目線をあわせ、その目を見詰めた。
びくん、と、ブランシールの体が跳ねた。
青い瞳が恐怖に染まる。
フランヴェルジュは胸が痛むのを感じた。
心とはどうすれば癒えるのだろう?
風が開け放した窓から忍び入りカーテンを揺らす。春の香が、皮肉なくらい瑞々しい、そんな春の日。だがブランシールの瞳は氷だ。
テーブルを退けた。
そしてブランシールのすぐ前に立つと、おもむろに座ったままの弟を抱き締める。
何もかもが目茶苦茶で、もうおかしくなりそうだった。それでも、温もりはそこにある。
「……では、行ってくる」
フランヴェルジュは腕を放し、弟を解放した。そして踵を返す。
ブランシールがその背に投げかけた呟きを、懺悔を、フランヴェルジュは聞く事がなかった。