エスメラルダ
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最後にした事は、思いっ切り国璽をついたことだったと、ぼんやりとフランヴェルジュは思う。
湯浴みの後、ガウンだけを羽織ったフランヴェルジュの前に広げられた書類。
あれは宣戦の布告書だ。
フランヴェルジュは酷く落ち着いた気持ちで、羽ペンを躍らせた。
そしていつもより流麗な署名の下に国璽をついたのだった。
ついた瞬間に、文官がひったくるようにその書類を手にし、鉄砲玉のように飛び出していった。ファトナムールに、使者を遣わし、転移を繰り返して届け、通達する。
使者の役を買って出たのがまだ若い騎士だった事を覚えている。
生きて帰れるか定かではない使者の役に、あの若者は何を思って立候補したのであろう? 尤も、フランヴェルジュよりは年上であったが。
新婚の部屋ではなく、いつもの部屋で目を覚ましたフランヴェルジュは、頭が酷く痛むのを感じた。天蓋から下がる緞子と紗のそれぞれの帳を開こうと思うのに、何だか酷く億劫で。
身体が酷く重かった。
呪いかも知れないと、フランヴェルジュはぼんやりと思う。
この手は朱に濡れている。
熱くぬめりのある朱……血に。
今まで人を殺めた事などなかったのに、彼はそうした。躊躇うこともなくそうした。
周囲の者は彼が激情に駆られて狂ってしまったと思ったかもしれない。
それは半分は当たっていたが、半分は外れだった。
あの時、頭の中に冷静な自分が確かにいた。
どうせ、戦争は避けられないのだから、と。
それならこの愚か者一人の死が増えようが変わりあるまい? と、そう囁いた悪魔がいた。
ひたすらに自分からブランシールを奪った男が憎かった。
仮にもう一度同じ機会が与えられるのなら、やはりフランヴェルジュは躊躇わずに弟の仇をとるであろう。何度その機会が与えられても、フランヴェルジュの選択は変わらない。
しかし、一国の国王としてはやり方を間違えたと知っている。とんだ暗君だ。
しかし、どうしようもないのだ。
今考えなければいけないのは先のこと。昨日の過ちではない。
「エスメラルダ……」
愛しい少女の名を呼んだ。
彼女の為にも、やるべきことをやらねば。
感覚がなくなって丸太のようになった腕を必死で持ち上げる。そして、眉間のこりを揉み解そうと努力した。
数学が、フランヴェルジュは嫌いだった。
だが、なんとなくそれを思い出した。
公式が目茶苦茶で間違えていても、考え方一つ変えた途端に正解に結びつく事もあるあの学問が、ブランシールは大好きだった。
それと一緒だ。
今のやり方がまずくても、最終的によい結果、『正解』を出せば、それで問題ないのだ。
腕をおろして、ぐっと力を込めた。
羽毛で膨れ上がった布団に肘が沈む。
そのまま、フランヴェルジュは身体を起こした。
紗を開く。緞子を開く。
外の様子はカーテンを開けなければ解らなかった。人を呼べばいいがそういう気分でもなく、フランヴェルジュはそっと右足から床に下ろした。
上履きを蹴り飛ばし、フランヴェルジュは足を進める。
濃紺の緞子を開いた。
夜明けだった。
何もかもが変わり行く中、それでも世界は生まれ変わり続ける。
朝は全ての人々にキスをして、『真新しい明日』の到来を告げるだろう。
そして、一日が始まる。
今日は昨日とは違う一日なのだ。
「神様……」
あとはもう、声にならなかった。
レーノックスの自害をフランヴェルジュが知るのは、この直後の事である。